マリアは平日に母親とのあいだに起こったことをアルバにメールする。母親は、父と別居してから頭が少しおかしくなっている。アルバは、父親と過ごした週末のできごとを書いて返信する。驚いたことに、父親は若々しくなっていた。そしてマリアとアルバは、両親が知り合った場所でもう一度ふたりを会わせようと計画を練る。それで何かが変わるかも知れない! メールという現代の書簡体で、マリアとアルバのふたりが苦しみながらも、両親の状況を理解していく様子を描く。
サイラは自分の容姿を好きだと思ったことが一度もない。金髪で目が青く、みんなにカラミ、つまり私生児と呼ばれていた。姉と母、祖父と一緒にアフガニスタンに住み、自分を8歳と思っている。ある時、タリバンの忠実な信奉者である残酷な男、ラミンがサイラの人生に現れ、一家に永遠の不幸が降りかかる。しかし、すべてが失われた訳ではなかった。スペイン軍のおかげで、サイラはスペインのバレンシアに行くことができ、里親の愛情に包まれて育つ。だが、過去の悪夢は頭からはなれることがない。
量子力学の現実は、未来を先取りする新しいパラダイムだ。
スペイン文学の歴史を変えた三部作が、初めて1冊にまとめられた。芸術が語りだし、詩的な散文で読む者をとりこにする小説と、古いポラロイド写真の想起力を持つ野心的なプロジェクトに、漫画家・イラストレーターのペレ・ジョアンがコラボし挿絵をつけた。アグスティン・フェルナンデス=マリョは、ほんの少しピントのずれた詩的で、どこか心を乱す空気を作り出すが、物語が進むにつれて、読む者の心は登場人物に寄り添っていく。
若く美しいアウロラは、混乱のスペインと苦しかった過去を後に残し、メキシコに居を移して、裕福なビヒル=デキニョネス一族のベビー・シッターとして働くことにする。時は1941年。メキシコの雰囲気は、アウロラが逃れてきた陰鬱なスペインとは全く違っていた。ダンス、パーティ、大オーケストラ、そしてなんといっても映画産業が隆盛期で、メキシコの映画スターたちはハリウッドのスターたちと競っていた。アウロラは彼女の本当の将来は、戦争の恐怖に打ちひしがれたスペインではなく、メキシコにあると理解する。
両親の離婚以来マリナは、もうなにも元通りにはならないと感じている。変わらないのはただひとつ、おじいちゃん、おばあちゃんが住んでいるフランスの海岸地方の街、カマルグで過ごす夏休みだ。だけどその年は、絶対に忘れられない夏になった。エティエンヌに導かれて、再び大好きだった馬に乗るという希望と勇気を取り戻すことができたのだ。そして、なにより大事なことに、隙があれば現れてこようとする、悲しみという黒い虫が少しずつ消えていったのだ……。
800年前、異端のカタリ派によって荒廃した土地で、アラゴン国王ペドロ2世兼バルセロナ伯は、強大な軍の先頭に立っていた。キリスト教徒の土地で初めて招集された十字軍を相手にした野戦でその戦いは熾烈を極めていた。十字軍を指揮するシモン・ド・モンフォルは異端のカタリ派の鎮圧を試みる。カトリック王(El Católico)の異名を持つペドロ2世は、ローマ教皇イノケンティウス3世により戴冠を受け、異教徒を相手に戦ったラス・ナバス・デ・トロサの戦いで勝利した王だ。
草地を求めて移動し、ワニがうようよしている川を渡らなければならないヌーのドキュメンタリーは、おそらくだれもが見たことがあるだろう。毎年群れが通り過ぎたあとには必ず数匹が取り残されるが、ワニの飢えを和らげる、こういう犠牲がいるおかげで、群れは前進できるのだ。本書の登場人物たちも、そのような状況に置かれている。群れを渡らせるため自分が犠牲になるかもわからぬまま、ワニがひしめく水の中へ入っていくしかないヌーそっくりの状況だ。その多くは、青春期を通りすぎた大人である。
草地を求めて移動し、ワニがうようよしている川を渡らなければならないヌーのドキュメンタリーは、おそらくだれもが見たことがあるだろう。毎年群れが通り過ぎたあとには必ず数匹が取り残されるが、ワニの飢えを和らげる、こういう犠牲がいるおかげで、群れは前進できるのだ。本書の登場人物たちも、そのような状況に置かれている。群れを渡らせるため自分が犠牲になるかもわからぬまま、ワニがひしめく水の中へ入っていくしかないヌーそっくりの状況だ。その多くは、青春期を通りすぎた大人である。
学校帰りに誘拐された9歳の少年の体験を綴った、辛いが感動的な物語。誘拐犯は彼を遠くに連れ去った後、金と引き換えに、子どもを授かることのできない夫婦に引き渡す。時は1960年代。今からそう遠くはないが、忘れてはならない恐ろしく恥ずべきことが起こっていた時代である。本書は、私たちだれもが幼少期に持っていた、先入観のない清らかな想像力へのオマージュでもある。