これまでのエッセイ
「ふっふっふ/とうとうよみおえたか/10年おそいわ!」
博士論文審査の参考にと本棚から取り出した古い本の最終ページに、自分のものではない筆跡の、こんな書きこみがあった。はて、誰が書いたのだろう? ページをめくってみると、ところどころ書きこみしたり下線を引いたりしているので、決して読まなかったわけではないらしい(そのわりに、いつものことながら、中身はあまり憶えていないのだが)。そして、それらの途中の書きこみは紛う方なき私自身の筆跡だ。では、最終ページの挑発的で愛嬌に満ちた文言はいったい誰が書き込んだのか?
それが古本で、前の持ち主が書いた、などというならばまだ話はわかる(それに、そんな想像をしてみると楽しい)。しかし、本は私自身が新刊で買ったはずのものだ。見返しにタグがあって、かつて市ヶ谷にあったマナンティアル書店で購入したものであることがわかる。ピオ・バロハ『知恵の木』Pío Baroja, El árbol de la ciencia (1911) のカテドラ社Cátedraの校注版シリーズLetras Hispánicasの225番。ピオ・カロ・バロハPío Caro Baroja編注による第二版だ。1985年刊。
カテドラ社の校注版シリーズは学生時代もっとも重宝した叢書だ。編者による解説(作家および作品の紹介など)と採用した版についての検討、文献一覧が導入部にあり、本文には語句や文章の解説、解釈、批評の紹介などの注がつく。それが校注版の定型だ。作品によって(編者によって)詳細さに差はあるものの、いずれにしても、そうした編成なので、学問的に文学作品を読もうとする初学者や専門外の者にとってはいい入門の役割を果たすし、専門家にとっても勉強になることの多いのがこれらの校注版だ。
スペインにはカテドラ社のみならず古典文学の校注版を比較的安価に提供している出版社がいくつかある。エスパサ・カルペEspasa Calpe社のClásicos Castellanos は1910年に始まる古株で、碩学ラモン・メネンデス=ピダルRamón Menéndez Pidalが率いた歴史学研究所文献学部門の活動に結びついている。19世紀ドイツで整備された近代文献学は、歴史学の一分野として古典解釈学、文献注釈などの分野に特化する形でスペインでも隆盛を見た。20世紀初頭、ちょうど『知恵の木』が発表されたころには、そうした文献学的知見を基にスペイン文学の古典の発掘とカノン化が進み、「スペイン文学史」が確立した。その分野で最大の貢献をしたのがメネンデス=ピダルと彼が率いる歴史学研究所文献学部門に集った学者たちの集団だった。そこにはメキシコの作家アルフォンソ・レイェスAlfonso Reyesも一時期(1910年代後半)参加していた。1991年、メキシコ国立自治大学(UNAM)文献学研究所の訪問研究員だった私は、レイェスの個人文書館Capilla Alfonsinaに通い、その歴史学研究所時代の仲間たちとの生涯続いた友情の足跡(手紙のやり取り)に触れ、ずいぶんと知的な刺激を受けたものだ。
話を注釈版古典叢書に戻すと、1969年に始まるカスタリア社Castaliaの Clásicos Castalia はペーパーバックのサイズ(新書版ほどの大きさ)を採用してもっと手軽な印象を与え普及した。1973年に始まったカテドラ社のLetras Hispánicas は、スペインの古典に限定しない、イスパノアメリカを含む作家たちの近現代作品をもラインナップに入れることによって先行する叢書との差異化を図ったようだ。私が持っている中でもっとも番号の若い18番はアルフォンソ・レイェスのアンソロジーだ。1977年刊。今問題にしている『知恵の木』と同年、85年にはアレホ・カルペンティエール『失われた足跡』Alejo Carpentier, Los pasos perdidos (1953) をイェール大学のロベルト・ゴンサレス=エチェバリーアRoberto González Echevarría の詳細な解説と注つきで発売している。叢書内の番号は211。
その後、カスタリア社も20世紀の全スペイン語圏のものを扱うようになった。同じカルペンティエールの『春の祭典』La consagración de la primavera (1978)はこのシリーズで出ており(238番、1998年刊)、これを翻訳したときにはいろいろと理解の助けにした。
以上の3叢書以外にも、プラネタ社PlanetaのClásicos Universales(文字どおり世界文学のシリーズだが、もちろん、ここにはスペイン語作品も含まれる)とかビブリオテカ・ヌエバ社Biblioteca Nueva の同名の古典叢書なども着実に点数を増やしている。そんな状況なので、実はスペイン語は文学研究をする環境が整った、実に理想的な言語なのだ。実際、私は学生時代、とりわけカスタリアやカテドラの校注版の作品をよく授業で読むことになったし、それらの作品の編者の仕事を自身の文学研究の指針としたのだ。
これら注釈版古典叢書の中でもとりわけカテドラを気に入ったのは、黒で統一されたその装幀が格好よかったからであるし、やはり何よりも私自身が近現代を中心に扱うことにしたからだろうと思う。その方面のラインナップの充実したカテドラ版をたくさん手に入れることになったのだ。私は学部の卒業論文では『失われた足跡』を取り上げたのだが、上記のカテドラ版があまりにも充実していたので、大いに参考にした。……!
ここまで来て思い出した。そういえば、同年の卒業論文ゼミには、『知恵の木』で論文を書いた人物がいたのだった。年齢は同じだけれども入学年度で言うと先輩にあたる友人Oが、ピオ・バロハ作品を題材にするというので、私はマナンティアル書店に寄ってこの校注版を見つけた際に手に取ったのではなかっただろうか?
問題の書きこみを見つけた一月ほど後、そのことに思い至った私は、ワシントンDC在住のOが私の勤務する東京大学本郷キャンパス内にある施設で開かれる国際会議に参加するために帰国すると知って連絡を取り、大学近くの居酒屋で久しぶりに会うことにした。その際、問題の『知恵の木』を持っていって、彼に突きつけてみたのだ。これ、Oさんのしわざでしょう?
彼はニヤリと笑って勝ち誇ったように言った。
「10年どころか、30年かかったわけだな。本当にお前は読むのが遅いな。そんなんで研究者として本当にやっていけるのか? ふっふっふ……」
柳原孝敦(やなぎはら たかあつ)
スペイン語圏文学研究、東京大学教授
著書に『テクストとしての都市 メキシコDF』など
翻訳書に アレホ・カルペンティエール『春の祭典』など。(カルペンティエール『この世の王国』、ベニート・ペレス=ガルドス『トリスターナ』などの翻訳も近刊予定)