ナディアは夫マルコスとともに購入した家「サ・マレア」の改装工事の進み具合を確認しにイビサに向かう。夫婦は最近しっくりいっていない。子供ができないことを、最初のうちふたりは問題にしていなかったが、今ではそのことをちょくちょく考えてしまう。だからナディアにとって購入した家のリフォームは、ふたりが必要としている平穏を見つけるためのきっかけだった。だがマルコスの気のなさが、ナディアを落ち込ませ、この家の元の持ち主、バレリオ・モンタルバン博士へ興味をそそられる。
アントニア・スコットは何をも恐れない。恐れているのは自分自身だけ。しかし、そんな彼女よりも危険な人物が現れる。彼女を打ち負かしかねない人物だ。黒い狼は刻一刻と近づいてくる。アントニアは今初めて恐怖を感じる。
これらの物語は、あまりに信ぴょう性があり過ぎて逆に、真実味を持たせるために一部の詳細を削除しなくてはならなかったほどで、「排尿文学」とでも呼ばれるジャンル、さらにその厳しいレアリズムによって「下剤文学」というサブ・ジャンルに入る。入る、というより、下劣な喜びに浸りながら、そのサブ・ジャンルに潜り込む。出版社の最初の意図は、そのデリケートな役割にふさわしい紙(トイレットペーパー)に印刷するつもりだったが、インクがにじんでしまった。
ヘビと言われる川が小さなノアベリ村を通っています。郵便配達人のフェデリコはもうすぐ職を失いそうです。孫娘のイリアにはおじいちゃんを救うある計画がありました。でも、村長のイシドロさんは川とフェデリコが大嫌いです。相手に届かない手紙…そして、みんながなにか秘密を隠しています。さぁて、どんな秘密でしょう?
ガリシア内陸部の村で、気難しいやもめの風車守の男が、ガリシアに伝わる最悪の悪夢が周囲で息を吹き返すのを目の当たりにする。バラバラになった動物の死骸が発見され、収穫作物が荒らされ、亡霊行列(サンタ・コンパーニャ)が現れ、狼男が代父を襲う。村人はそれらを風車守のせいにし、村のメイガ(霊媒師)がしゃしゃり出てくることで、村人の間の裏切りの歴史が暴露されていく。本作は、著者フランシスコ・ナルラの処女作で、主人公たちの暮らしだけでなく、死、残虐性、欺き、魂の悲嘆についても、正確かつ豊かな表現で語る。
毎週木曜日、3人の友人がバルで集まる。ひとりは映画監督で現実と想像の世界を隔てる境界線を常にあいまいにしているようにみえる。もうひとりは小説家で、書くことと生きることにおいてできる限り自由であることを目指し、文体もガールフレンドもあまた持つ。3人目はある役所勤めの公務員、自分の妻や息子のことをほとんど何も知らないと感じている。
貧しく、病気がちで、ほとんど目が見えない。スペインが生んだ20世紀文学の天才、ベニート・ペレス=ガルドスはそんな風に晩年を生きた。それにも拘わらず、彼は友人、家族、市井の人々からの愛情に不足することはなかった。彼が文筆業を続けるために他の若い人たちの目に頼ることが必要になったとき、彼女、カルメラ・シッドが彼の傍らにいた。彼女が彼の目になる。そして彼の声になる。
ベガはパートナーにひどい扱いをする雄の小鳥の話を聞きました。何が起きたか知りたいですか? そんなことをする小鳥がなぜいるか知っていますか? 雌の小鳥がどうしたか知りたいですか? 性差別暴力は地理的、社会的、時間的境界を越えた大きな社会問題です。性差別暴力はいろいろな形で現れますが、このセンティクエント・シリーズで取り上げるのはカップルの間で男性が女性にふるう暴力です。子供たちの健全な育成のためには、幼少期にきちんとした扱いをうけなければなりません。
バートがいなくなった。ニューヨーク・ソルファンディ音楽学校の仲間たち、ミア、エリック、サミラ、ジャスティンは、秋祭りにクインテットで参加するためにバートを見つけなければならない。どこに行ったのか? バートは音楽に夢中なので、音楽のある所ならどこだって彼のいる可能性がある。必死になって街の通りやバーや劇場に行ってはバートを捜し歩くうち、友人たちはラテン音楽やジャズ、クラシックにラップ、ゴスペルやミュージカルを楽しむようになる。
海のごみがだんだん増えている。マッコウクジラのロタは、そんなごみがどこから来るのか知りたくなった。そこで、カニのマラクと一緒に調査の旅に出かける。まず船を、次に港を調べ、最後に町へとたどり着くと、人間の住むところにプラスチックがあふれていた。だから、海の動物たちみんなを呼んで海のクリーン作戦を実行することにした。ロゼル・リンバウが書いたこの物語は、ロサ・サルディーナ・グループの独創的なアイディアから生まれた。