19世紀の英国とキューバとの間で展開する禁断の愛と、情熱的な冒険。 マリア・レスカノの穏やかな人生は、養子である兄エリックに恋していると気付いた19歳のときに大激震する。 それは、1870年のイギリスでは白い目で見られる行為だった……。エリックもまた、彼女への恋心を自覚し、家を出る決心をする。彼が出て行って、マリアと両親の心は千々に砕けた。そんなとき、アレハンドロ・モンテネグロが彼女の人生に登場する。これはおそらくマリアがエリックを忘れるために待っていたチャンスかもしれない。
国境に接する町の愛と死の物語。1990年、ポルボウ町。若い女性が木で首を吊った状態で見つかった。花嫁のような白いドレスをまとっていたが、誰も彼女を知らない。捜査の結果、自殺であることが確認されたものの女性の身元は分からなかった。それから25年後、ガリバルディ警部がこの件を見出した。長い年月がたってはいたものの、何が起きたのかを調べるため、警部はポルボウに赴くことにした。しかし町に着いてみると麻薬密売、女性の人身売買や政治汚職などが強力に絡み合っている状況に直面し、物事は簡単に進まない。
畑のすみっこの見えない場所に、ズッキーニは隠れている。いつも21個のボタンのついた服を着て、前髪は畑のだれよりぴたっとワックスでかためている。毎晩、葉っぱの下からハサミとくしとドライヤーをとりだし、石のうしろの隠れた場所にヘアサロン営業中のプレートをかける。けれども、ズッキーニ氏は客たちを陰で非難するのがほとほといやになった。あるこだわりが、たくさんの問題をひきおこす。
「これは牝牛のビクトリアの物語だ。ビクトリアは死んで、はい、それまで」昔話はこんなふうに語っている。モンテロッソ(訳注:短いお話で知られているグアテマラの作家)の恐竜の物語とさして変わらない長さだ。これではあまりにも短いと、ノノ・グラネロはお話の中から要素をひきだし、不幸な牝牛の別の人生を描いた、このめくるめく悪党バージョンをつくりあげた。はじけるユーモアと韻とナンセンスで、おしまいまでたどりついたかと思うと、ぐるっとまわって、それがべつの始まりとなる。
何もない果てしない夜。だけど心に呼びかける。天気の良い夕暮れ時、お父さんはシャツの袖を捲る。家の外で犬が吠え、楡の木々はそよぎ、洗濯場の蛇口から水滴が垂れる。兄さんが何かを叩く音がする。庭の作業場をひっかきまわしているんだ。お母さんは1階の店で午後の最初の客を待っている。家は労働と冷えた食べ物のにおいがする。土、トマト、藁の上のジャガイモ、誰もいない家のようなにおい。お父さんは洗い場の上にもたれて雲を眺める。その日の休息を取るように、仕事や病、人生に一息入れるように。
自分に超能力があり、親友たちが不思議な才能を持ち、自分の最大の敵は悪魔だとわかったら、きみならどうする? それが僕に起きたことだ。中学で一番さえない男子だった僕が、地下世界で最も人気のある半天使になった。
Las niñas prodigio (天才少女たち)は、部分的にはアルコール中毒の中年男の執拗なアムール・フー(狂気の愛)にかき乱される自叙伝だが、数幕ものの演劇、ゴシック・ホラーの色合いを持った物語であるとも言える。しかし本書はとりわけ、ひとりの女性が不完全な現在からスタートして、あらゆる時代に戻るためのアイデンティティについての現代小説だ。
人の内部にある言葉や声と同じだけお話は存在し、自然のなかで生まれる色や音と同じだけの詩がある。それなら、お話のなかに詩が入りこんだらどうなるだろう。その瞬間に伝説がとびだす。この絵本の中できみも物語を見つけよう。抒情性と魔法がすべてをつつみ、イラストレーション一点一点に体現されたデリケートでやさしい雰囲気のなかに、感動につながるリズムと、体をゆすぶる音楽性がある物語を。始まりから終わりまで魔法があり、詩の鼓動とお話(この物語のふたりの主人公)が、手をとりあって私たちの心や感情をかけめぐる。
人々が集まって物語を語り聞くという、「ニシントリー」と呼ばれるアフリカの純粋な口承の伝統が、フミラヨ・ジョンソンの物語のなかにはきらきらと魔法に満ちて花開いている。スペインとギニアの血をひく、才能あふれる若き女性作家ジョンソンは本書で、生命と限りない美にあふれる世界を伝え、ラマンチャ出身のイラストレーター、ペドロ・セルバンテスのずばぬけたクオリティの個性的な絵がさらなる魅力を添えている。
アブリルとシャラキアには共通点がたくさんある。ふたりとも16歳になったばかりで、未来は自分の手でつかみとっていきたいと考えている。そして間もなく人生の決定的な変化を迎えようとしているところも同じだ。ふたりをへだてるものはただ、16世紀のテノチティトランと21世紀のマドリードという時間と空間だけ。ふたつの世界で、彼女たちは友だちといっしょに冒険の旅へと出かける。魅力と謎に満ちた旅のなかでふたりは同様の、そして究極の疑問を抱くようになる。すなわち、わたしたちは何者なのか。