ずっと前から真っ暗な闇がジャングルを覆っている。そこに住むものたちは月や星を、とくに太陽を待ち焦がれた。しかし動物たちは、その温かい命の源を見つけるどころか荒廃を発見し、どう呼べばよいかわからないほどの大きな火災を前にパニックに陥る。気候変動や人間の行いが起こした大規模火災による、地球の緑地帯の破壊だ。著者ファビオラ・アンチョレナはアマゾン熱帯雨林の終焉を描いたが、これは世界中のどの森に起きてもおかしくない。
舞台は、鉱山が閉鎖し、発電所も解体予定で先行きが見えないレオンのとある村。薬剤師の母を持つ息子と飼料屋の娘の物語。希望もなく「レンガ」を摂取する人々の物語。愛、ガソリンスタンドの駐車場に残された改造車、礼拝堂のがれきに積もったほこり、ニワトリとその睾丸を使った実験の物語でもある。そして何より、物語を語って相手を誘惑し、操り、口車に乗せようとする者の物語。
それは何? だれがそれを作り出すの? そしてなにより、目的は? ソーシャルネットワークを通じて私たちは日々、操作された画像や映像、陰謀論、ディープフェイクや悪意のあるボットを目にする。それだけではなく、何が本当で何が嘘かを確かめるすべを持たないために、知らないうちに共犯者になったり、ニセ情報を流して混乱を引き起こしたりしてしまうかもしれない。
あなた方それぞれの出自が、個々の存在自体や、感情的および経済的にどのように人生を管理するのかについての大部分を決定している。筆者のテオドール・デ・マスは、彼自身とその幼少期の家族(デ・マス家、バルス家、ロカバジェラ家、イサルド家、テヘドール家、ベントサ家、インダルテ家、バディア家)の経験を通して、より良い日々の管理に資する経済観念を説明し、きわめて重要なエピソードを紹介する。その目的は節約し、裕福になり、他者のために働く義務から解放されることだ。
1919年1月20日、マドリードのレティーロ公園。著名な小説家ベニート・ペレス・ガルドスは、すでにほとんど視力を失い、体も不自由だったが、彼の栄誉を称える記念碑の落成式に出席する。その夜、銅像の足元で男性が喉を切られて死亡し、犯人は他でもないガルドスの看護師エレナだった。10年前、ガルドスは迷子になっているところを発見された。老いと失明の影響は大きく、マドリードは抑圧的に感じられた。サンタンデールに逃げられないときは、記憶の中に逃げ込んで自分を慰めた。
葬儀業を営むロレンテ一家は、代々まともだと感じさせない強迫観念的な固定観念を受け継いでいるようだ。生き埋めにされる恐怖は、祖父の化粧品で増すばかりだ。父親のマティアスは、葬儀屋に持ち込まれた美しい女性の遺体に密かに惹かれずにはいられない。そして孫のトリスタンはちょっとしたフェティシズム気質だ。映画発祥の地ハリウッドの美人女優を彷彿とさせるグレースと恋に落ちたトリスタンは、生きる気力も幸福感もない、普通とはかけ離れた人々に囲まれていることに気づく。私は心配だ。
『Gato en el camino(路上の猫)』は、セルバンテス賞受賞の詩人ニカノール・パラにとって最初の《自己による反詩の先例》であり、天分を示した作品だ。不条理性、脈絡のなさ、そしてユーモアが運に身をゆだねた猫のいのちを包みこむ。ジュアン・カサラモナが独自の解釈を施した絵は読書の可能性を広げ、この物語をどんな世代の読者にも作者の作品の愛読者にも扉を開く文学的遺産に変えた。
移民という現象にジェンダーの視点から統合的アプローチを行った作品。大きな不均衡が存在するこの世界の人間開発を巡る女性と移民が果たす役割を、移民受け入れ社会という背景におけるその優れた社会的機能について示しつつ論じている。本書において、フィールドワークは、現象に対する過度なエスノセントリズム的な解釈を避けるために、現実から切り取られた側面を示し、かつ、当事者にとっての移民の意味をより深く理解できるよう提示される。