ダミアンは35年前から映画館の映写室で働いている。自らの手で映した映画を通して世の中を見ることに慣れ、その登場人物のように考えたり話したりする。ところがある日、映画館が閉鎖されることになり、彼の知る世界はがらりと変わる。彼も妻も失職し、しだいに自分たちが他人の目には見えない存在になっていくことに気づく。社会的にというだけでなく、物理的に消えていくのだ。しかし、混乱や新たな状況への戸惑いは、自分たちと同じ状況にある人びとと知り合うことでやわらいでいき、その人びとの中に助けを見いだしていく。
フェデの一番の望みは海賊になることだが、海賊への道は遠い。海賊になるためには、その前にやっておかねばならないと思われるいくつかのことがある。たとえば、ひとりでおふろに入ること、ベッドの中でこわがらないこと、オウムを手にいれること、そして何より重要なのは片脚をなくして、義足をつけること。しかし、クラスに転校生がやってきてから、勇敢な海賊になるには、脚をなくさなくてもよいことがわかってくる。
「にわのいきものたち」シリーズの最新刊。今回は、テントウムシのアントニエタと仲間たちは、1年に一度の庭のお祭りの準備中。楽しい夜にむけて準備は万事オーケー。楽団の生演奏つきのダンスまであります! ところが、いよいよというときになって、楽団の歌手が病気に。お祭りはどうなるのでしょう?
古くからの友人たちの一行が、山小屋に集まって週末を過ごす。彼らには、過去の暗いひとつのエピソード以外には共通するものは何もない。集まりはいつもの筋書き通りに進行するが、宴たけなわの中、外部からのある出来事で、すっかり計画が変わる。
そもそも音楽形式を構成しうるあらゆる形式のなかで、フーガはもっとも厳格で内に閉じているように思われる。このフーガ形式のあらゆる異なった演奏を通してみると、作品全体の基調や主題を選ぶ始まりから、主題の展開、完結まで、全体が管理され統御されていることがわかる。私たちは分析を試みることで、作曲家がこのフーガという音楽形式をつくりあげられるようになることを目指すと同時に、非合理的で「不確かな」要素が、一見厳格に見えるこのフーガ形式の道を切り開くに違いないことを訴えたい。