サンタンデール湾クラブの会長で、市の有力者のひとりである女性実業家フディス・ポンボが、豪華スクーナーの船室で死体となって見つかった。彼女はテニス界の選ばれた数名の招待客とともに、日暮れどきにクルーズに出ていた。前世紀初頭の密室犯罪の小説を思わせる犯行。船室は内側から鍵がかけられ、遺体に残された奇妙な傷も、犯行の謎めいた方法も説明がつかない。またパーティーのすべての招待客には、彼女の命を奪う動機があるようだった。
アントニア26歳。もの皆変わっていく80年代マドリードで、4歳の男の子とふたりきりだった。若く未熟で子どもを抱えながら生きていた女性の、内面の軌跡の物語。大都会で、確としているよりも渾沌とした時代の中で、喪失と孤独を経験するにはあまりに早すぎた人間が、自分自身の場を確立しようとする。
1937年5月、ゲルニカの爆撃後、何千というバスク人の子どもたちが戦争の残虐さを逃れ、亡命地に向かってサントゥルセの港から出発した。その中のひとり、8歳の少女カルメンは、ベルギーに住む、ロルカの翻訳家でもある作家の家に身を寄せることになった。カルメンは祖国から引き離され、その作家の家族のもとで育つ。第二次世界大戦が終結した日、養父が亡くなり、フランコ体制下のスペインに戻ったカルメンは、生まれた家で新たな生活を始める。
繊細で注意深いまなざしと気取りのない感情を持つパロマ・ディアスは、ふたつの物語の交差点に立ち、物や物語や思い出となって追いかけてくるふたつの過去(家族と集団の、政治と個人の)を探っていく。記憶の衰退という辛い現実を前に、本書『私たちが忘れさったもの』は、記憶を回復し、再評価、再現しようとする堅い意志を、エネルギッシュで才能豊かに、確かな筆致で示して見せる。内面をこまやかに描いた、読者をひきつけてやまない誠実な作品。
アドリアンはとても変わった青年。それは彼の行動に自閉症の特徴が見られるからだけでなく、7番目の子どもだからだ。山の伝承によると、7番目の子どもはオオカミ人間に変身するという。さらに、時々夜になると奇妙な発作に襲われるせいで、アドリアンは誰からも理解されない。そこで、村を出、今は兄セノン、兄の恋人、仲間と呼んでいる自分の犬とともにワゴン車で暮らし、スペインじゅうを放浪している。
ロス・アストロナウタス私たちは皆、幼少期にどのような人々が家族を形成し、どのようなつながりが私たちを結びつけているのかを学ぶ。この小説の主人公以外は、自分にもかつて家族がいたことを知らされていない。その痕跡がひとつ残らず消えてしまうまでに、長い年月の間に何があったのか。宇宙飛行士たち』は、時間の中で失われたこの生態系を読み解く物語である。偶然発見された、両親と一緒にいる少女を写した写真が、35年遅れの家族の現実に光を当てる。
幾度となく襲い掛かる困難に果敢に立ち向かい克服する4人の強い女性が主人公の物語。それはまるで、バレンシアの旧市街にある昔の大衆浴場で700年もの間流行病、戦争、再開発などを生き抜いた施設バーニョス・デル・アルミランテのような途轍もない強さだ。浴場は最も幸せな瞬間や辛い時間が過ぎていく人生の背景幕。
複数の家族と隣人たちの1年間の暮らしを描いた、心を揺さぶる群像小説。親と子、若者と老人、前に進もうと勇気をふるい起こして生きるごく普通の人々。思いがけず知人に支えられた者もいれば、新たなチャンスにかけた者もいるが、みな、パンにキスして感謝の気持ちを表していた昔の人々と同じように辛抱強く踏ん張っている。それらをもとにこの小説は、ほろ苦い瞬間、大都市の中できらりと輝く連帯、運命の交差点での友情や愛情の細やかな物語を紡ぎ、ごく最近のスペインの感動的な肖像を描きあげた。
細やかな心理描写の11の短編で、クララ・パストールは特異な宇宙を見せてくれる。地理的な位置はあいまいだが、的確な雰囲気のなかに、登場人物の微妙な心理が見てとれる。主人公が子どもの場合は別だが、収録された物語の多くで、主人公が気づかないうちに欲望が生まれて死んでゆく。主人公は外見の落ち着きを保とうとするが、なかなかそうはいかない。流れるような自然な散文とともに、物語の筋の動かし方の巧みさを楽しめる美しい本。ほのめかされ、想像力と感性にゆだねられるすべてが読者を魅了する。
これらの物語は、あまりに信ぴょう性があり過ぎて逆に、真実味を持たせるために一部の詳細を削除しなくてはならなかったほどで、「排尿文学」とでも呼ばれるジャンル、さらにその厳しいレアリズムによって「下剤文学」というサブ・ジャンルに入る。入る、というより、下劣な喜びに浸りながら、そのサブ・ジャンルに潜り込む。出版社の最初の意図は、そのデリケートな役割にふさわしい紙(トイレットペーパー)に印刷するつもりだったが、インクがにじんでしまった。