いたずらやドジで魔法の学校で有名な三つ子の魔女、ブラウリアとブリヒダ、ブルニルダの、ぜったいに楽しい物語。三つ子は魔女の資格を取ったばかりで、実習をするために、大魔女にごく普通の人間の学校に送られる。3人は、オートマチックでエアバッグ標準装備、人間工学に基づくシートを備え、CDプレーヤーを内蔵したほうきに乗って、目的地に着く。そこで困っている女の子を助け、あれこれといたずらをたくらんで、わくわくする冒険をくり広げる。
1923年のパリ。秘密の手紙。消えた宝石。暗号で書かれたコード。女王と宮廷画家。2010年のイタリア、カモーリ。アメリカで歴史の教師をしているアン・カーリントンはスコペッタ教授と会う約束をしていた。だがスコペッタが亡くなったことを知り、困った状況に陥る。スコペッタは未発表のマリー・ド・メディシスの手紙を見せて、ある秘密を明かしてくれることになっていたのだ。
マリアナ・エンリケスの世界は私たちの世界とは無縁のようだが、読み進めるうち最後は自分のものとなる。数行でもその世界に足を踏み入れ、空気を吸ったならば、生き生きとした感情表現のとりこになり、忘れられなくなる。細分化され悪夢となった日常に読者はうちのめされ、ストーリーやイメージに感情をかき乱され、それらが頭から決してはなれなくなる。例えば、「激越な女たち」と自称する集団は、ウイルスと化した重度の家庭内暴力に抗議する。
何もない果てしない夜。だけど心に呼びかける。天気の良い夕暮れ時、お父さんはシャツの袖を捲る。家の外で犬が吠え、楡の木々はそよぎ、洗濯場の蛇口から水滴が垂れる。兄さんが何かを叩く音がする。庭の作業場をひっかきまわしているんだ。お母さんは1階の店で午後の最初の客を待っている。家は労働と冷えた食べ物のにおいがする。土、トマト、藁の上のジャガイモ、誰もいない家のようなにおい。お父さんは洗い場の上にもたれて雲を眺める。その日の休息を取るように、仕事や病、人生に一息入れるように。
この小説のあらすじを説明するのはやめておこう。多くの場所で目にするだろうから。ただ、これがキャシー、スティーブン、コーリー、ケリー、マシュー、ダン、ダニエル、レイチェル、イザイア、ジョン、ローレン、カイル、ウィリアムの思い出に捧げた本だということは言っておこう。そう、コロンバイン高校の恐怖の犠牲者たちだ。意味が分からなければ、調べてほしい。このテーマに興味があって、怖くなければ、読んでほしい。
ダビッドは、ホセ・マリア・プラサの冒険ミステリーシリーズLos Sin Miedo(恐れを知らぬ者たち)の主人公である若者たちのひとり。祖父の家で見つけた古い手稿で読んだ怪談を、いつも(場違いなときでさえ)仲間たちに話している。幸い、いつも最後まで話すことができない。
⽇本⾵の怪獣ゴルシラが、仏教僧の純粋さと、無政府主義者の強さと、ふたつの脳より⼤きな⼼でスペインを旅する。寓話と社会的クロニクルの間で、オリウエラはこの主⼈公を冗談好きで⽪⾁屋のオルター・エゴ(別⼈格)として使う。この⼩説は他者と自己の境界を分けるアイデンティティについての考察であり、掟、シンボル、⽂化的価値観を⼀掃しようとする試みである。掟、シンボル、⽂化的価値観の中に深く根を下ろした社会は、帰属と集団⽣活のシステムに従わせるには好都合だが、同時に虚偽に満ちている。
人生において家族やお金の重みとはどれほどのものだろうか?違う場所、時代に、違う身体で生まれてくれば、何か違っただろうか? この小説にはふたりの女性が登場する。ひとりはマリア。彼女は60年代後期にマドリードで働くためにそれまでの人生を捨てた。もうひとりの女性アリシアは、30年以上も後にマリアと同じ道を通る。『Las maravillas (素晴らしいこと)』はお金、そしてお金がないことにまつわる小説で、所持していないお金がどのようして人を定義づけていくのかを描く。
Las niñas prodigio (天才少女たち)は、部分的にはアルコール中毒の中年男の執拗なアムール・フー(狂気の愛)にかき乱される自叙伝だが、数幕ものの演劇、ゴシック・ホラーの色合いを持った物語であるとも言える。しかし本書はとりわけ、ひとりの女性が不完全な現在からスタートして、あらゆる時代に戻るためのアイデンティティについての現代小説だ。
友だちと仲直りするときのハグの魔法にあなたは気づいてる? 顔が赤くなるのがわかって、隠れたくなったことはない? がっくりして腹が立って泣いたことは? 恐怖心、やさしさ、嫉妬、喜び……は、本書に出てくる気持ちの一部だ。快くないものもあれば、すばらしいものもあるが、いつでもそういういろんな気持ちが人生を、どこかわくわくする生きるに値するものにするのだ。