■概要
仕事にも結婚生活にも疲れた新聞記者のルイスは、テキサス州オースティンへの出張を心待ちにしていた。学会出席にかこつけて、愛人カミラとの逢瀬を楽しむためだ。ところが出発の直前になって、カミラから別れのメッセージが届いた。失意のままテキサスに赴き、大学の文書館にこもったルイス。そこで偶然、ウィリアム・フォークナーが愛人ミータ・カーペンターに送った手紙を見つける。刺激を受けた彼はカミラと過ごした〝完璧な日々〟を振り返り、長い手紙を書きはじめた……。全編にたっぷりのユーモアと真実をまぶし、文壇の注目を集める異色の書簡体小説。
■主な登場人物
ルイス マドリードに住む新聞記者。妻と3人の子どもがいるが、家庭にも仕事にも倦怠感を覚えている。
カミラ メキシコ人建築家。夫と子どもがいるが、オースティンで年に1度のルイスとの密会を楽しんでいた。
パウラ ルイスの妻。
セルヒオ ルイスの長男。
カルロス ルイスの次男。
カルメン ルイスの娘。
■あらすじ(原文はルイスの一人称)
ルイスからカミラへの手紙
2019年6月。デジタル・ジャーナリズム学会に出席するためにやってきたオースティンで、ルイスはテキサス大学の文書館ハリー・ランサム・センター(HRC)にこもっていた。本当なら今ごろは、メキシコから建築セミナーのためにやってきたカミラとともに過ごしていたはずだ。だが年に一度の逢瀬を目前にして彼女から届いた「もうここでおしまいにして、思い出にしましょう」というメッセージによって、甘い夢は打ち砕かれていた。
「思い出にする」これがおそらく、ふたりにとって最後の共同作業になるだろう。だけど思い出にして残すには、言葉にしなければならない。言葉だけが忘却を防ぐ手段なのだから。だからルイスは、決して送るつもりのないカミラ宛ての手紙を書くことにした。
ルイスがHRCにやってきたのは、新聞社から命じられた「日曜版の記事の材料探し」のためだ。当初の予定では、ここで適当に資料のコピーでもして、浮いた時間をカミラとのデートに充てるつもりだった。そのカミラは今、500メートル以内くらいのごく近くにいるに違いない。夫と一緒に。うつうつとした思いを抱え、仕事をする気にもなれずに漫然と過ごしていたルイスは、たまたま見つけたウィリアム・フォークナーの書簡を集めたファイルに惹きつけられた。妻がいる身でありながら、愛人のミータ・カーペンターに対しての燃え上がるような恋情を切々と綴った何通もの手紙に、大いなる刺激を受けたのだ。
フォークナーの最初の手紙は1936年4月の消印。1枚がふたつのブロックに分かれ、それぞれの冒頭に8:00と10:30という時間が記されていた。8:00のブロックでは、「会いたい、いつ会えるか電話してくれ」と書かれている。10:30のブロックは電話があったあとに書かれたものらしく、「明日会おう。明日。明日」と結ばれていた。tomorrowを3度繰り返さずにいられないほどの熱情は、ルイスの心に強い印象を残した。
カミラとは2年前、今年と同じ学会に参加するためオースティンに来たときに知り合った。建築家のカミラが出席するセミナーも、同時に同じ場所で開かれていたのだ。同じ飛行機に乗り合わせ、同じホテルに宿泊していたふたりは、朝食の席で言葉を交わしたことから親しくなった。いつから欲望を感じ出したのか、ルイス自身にもわからない。だがふたりは、オースティン滞在の間にベッドを共にする間柄になった。
ふたりで夜を過ごしたのは2年前の3日間、去年の4日間、それで全部だ。トータルで7日間の恋人。だけど重い荷を積んで進む船のような生活から逃避するため、1年に3日か4日だけの逢瀬は最高の手段だった。退屈な人生を送るなかでの唯一の励みが、今年もオースティンで待っていると思っていたのに、希望は無残に砕かれてしまった。
ファイルのなかの2通目の手紙には、フォークナーの直筆で12コマの絵が描かれていた。フォークナーとミータと思われる登場人物が卓球をしたり、ドライブしたり、浜辺で日光浴したりという情景を素朴に描いた漫画だ。最後のコマには人は出てこず、ふたつ並んだ椅子の上に男女の服や下着が置いてあり、絵の下にGOOD NIGHTの文字が見える。特別なことは起こらない、ぜいたくな生活というわけでもない、だけどこれこそが完璧な日々だと、ルイスは感じた。愛し合う男女が、なんの気どりも衒いもなく、自由にふたりの時間を満喫している。ルイスもカミラと過ごした7日間を思い起こし、フォークナーに倣ってイラスト付きの〝完璧な日々のルポ〟をしたためることにした。
ルイスが描いたイラストは11枚。それぞれに詳細な思い出の記録をつけた。ふたりで迎えた朝のこと、ホテルの名物メニュー、タコス・ブレックファストを見て、メキシコ人のカミラが「こんなものはタコスではない」と全否定したこと、日が暮れると「ホワイトホース」というレストランでツーステップ・ダンスを踊るのが習慣になったこと、その際にどうしてもカウボーイの変装がしたくなり、400ドルはたいてテンガロンハットやウェスタンブーツを買い揃えたこと……。すべてを書き終え、思い出に昇華させるときが来たと感じたルイスは、カミラに向けて最後の言葉を綴った。「愛しているよ、カミラ、すごく愛している。さよなら、さよなら、さよなら」
ルイスからパウラへの手紙
オースティンでの日程を終えたルイスは、ニューヨークのホテルにいる。ここで一泊して、明日マドリードへ帰る予定だ。本来は、この時間を利用して日曜版の記事の仕事をやっつけるつもりだった。だけど今、ルイスは妻のパウラに手紙を書いている。
パウラへの手紙でもまた、HRCでフォークナーの手紙に夢中になったことを書いた。そもそもあのファイルに興味を持ったのは、フォークナーが妻のお気に入りの作家で、ルイスが最初に彼女から贈られた本が『野生の棕櫚』だったといういきさつがあったためだ。フォークナーの手紙を紹介しながら、ルイスは自身の結婚生活に思いをはせた。今ではお互いに飽きているということも、はっきり書いた。生活のなかのルーチンは、まだ自分たちが夫婦であると感じるために作り上げたもの。その実態は退屈以外の何物でもない。
カミラへの手紙でも紹介した、フォークナー直筆のコマ漫画も添付した。今度は自筆の漫画は添えなかったが、その代わりにルイスはときをさかのぼり、パウラとの楽しかった日々を回想する。1歳だった長男を両親に預けて、ふたりだけの1週間が始まったときのはじけるような喜び。今はもう、あのような〝完璧な日〟の作り方を忘れてしまったかもしれないが、思い起こし、そしてきっとまたいつかあのような日々が来ると、ふたりで想像できることが大切なんだ。ルイスはいつしか、パウラとの生活を前向きに考えるようになっていた。
妻宛ての手紙は、実際に郵送することにした。だが速達にしても自分のほうが先に家に着いてしまうかもしれないから、電子メールでも送り、送信したら携帯電話の電源を切るつもりだ。明日帰宅するまで、電源は入れない。パウラはどんな反応を示すだろうか。明日、なにが起きるだろうかと思いめぐらしながら、ルイスは長い長い手紙に署名を入れた。
■所感・評価
饒舌な物語である。もちろん、小説だから饒舌というと語弊があるのだが、そう表現したくなるくらい、決して多くはないページ数のなかに驚くほどの情報量が詰め込まれている。特徴的なのは1センテンスが長いことだ。話題は縦横無尽に広がり、ユーモラスで少しエロティック、軽妙な語り口に翻弄されているうちに、いつしか愛について、人生についての深い思索へと導かれていく。
主人公のルイスは、ごくありふれた中年男。たったひとつの生きる喜びである、愛人カミラとの逢瀬だけを励みにしながら、惰性と倦怠に塗りつぶされた日常をなんとかやり過ごしている。とはいえ背徳行為に我を忘れているわけでもなくて、ルーチンからの逃避は年に数日くらいがちょうどいい、あまり長くてもいけないなどとうそぶき、デートを楽しみつつも、ちゃっかり妻に対するアリバイ作りをしたりもする。さらに、子どもが大きくなって離れていくのが寂しいという細やかな情愛と、それを(元)愛人に書き綴る無神経さを同居させてもいる。身勝手で小心、いい加減だが、純情と誠実さ、家族愛もそれなりに持ち合わせた、人間くさくてどこか憎めない男の一人称で、誰しもが持つ感情をありのままに、きれいごとにせず描いた本書。情けなくもおかしい恋の記憶を、フォークナーと愛人との関係にリンクさせつつ赤裸々に綴る主人公の姿に多くの人が共感を覚え、発売後わずか1年で6版を重ねた。またマリオ・バルガス=リョサをはじめとする多くの作家や主要メディアにも絶賛され、エルパイス紙やエルコンフィデンシアル紙の2021年優良書籍に選ばれている。
作者はオースティンに4年間住み、実際にハリー・ランサム・センターで様々な作家の書簡を研究したという。そのなかで巡り合ったのが本書の重要なモチーフであるウィリアム・フォークナーの手紙というわけだが、作者の斬新なところは、ただフォークナーの手紙を引用しただけではなく、それを下敷きにしながらも、とぼけたイラスト(作者自身の手による)とおかしみのあるエピソードで現代にマッチした独自の世界観を構築した点にあるだろう。そしてそれと同時に、私的書簡ならではの飾らない言葉や素朴なイラストを引用して偉大な作家の知られざる側面を現代の読者に知らしめ、100年近く前の手紙でも容易に共感できるほどの、人が人を思う気持ちの普遍性をクローズアップして見せたことは、本書の大きな功績といえる。作者の遊び心とフォークナーへのリスペクトが化学反応を起こし、ほかにはない味わいの一冊が出来上がった。ユーモラスな表現や語り口の饒舌さに目を奪われがちな本書だが、愛人への手紙にも、妻への手紙にも、そして子どもたちへの思いをつづった部分にも、愛という通底するテーマがある。普遍的でありながら斬新、通俗的でありながら深い思索へと誘う本書は、必ず日本の読者の心をとらえるに違いない。
■試訳(16ページ16行目から19ページ4行目まで)
だから、著名作家が愛人――ふたりとも、とっくに亡くなっているが――に宛てて書いた手紙のフォルダーを偶然手にした今、ぼくはずっと悩んでいる。ある愛の物語の最初の手紙がフォルダーの最初にあるのが見えて、同時に、最後の手紙がフォルダーの最後にあるのも見えるものだから、その最初と最後の2通の間に全部で何枚の紙があるのか目分量で数えずには、あのふたりの関係を消失から防いでいる手紙を項目ごとに測ってみずには、いられなくなったのだ。その結果、かのロマンスの証拠資料は全体の厚みがせいぜい0.5センチで、35センチ×25センチのスペースに入る大きさということがわかった、つまり手紙が入っている骨みたいな色をしたフォルダーが大体そのくらいのサイズということなのだが、そのフォルダーにはハリー・ランサム・センターのウィリアム・フォークナーの文書の第二保管箱の手紙が分類されていて、今朝はその手紙を見て時間をつぶしているわけだけど、今日一日のみならずこの先何日もこれらの手紙にかかりきりになって、今ではすっかり興味を失った本来の訪問目的を完全に忘れてしまうことになるんじゃないかという気がしている。さっきも言ったように偶然この手紙のところに来たのだが、とにかく非常に興味をそそられる文書で、そのなかに答えが見つかる可能性を見出したぼくは、若者たちがジュニア雑誌の恋愛相談コーナーを読むときみたいに嬉々として今これを読んでいる。だが同時に、フォルダーを見てすぐに新たなる疑問も浮かんだ。果たして、ぼくたちのことはどのくらいの大きさだったのか(いい名前が浮かばないものだから、「ぼくたちのこと」としておこう)。どんな痕跡を、どんな残滓を、どんな灰を残したのか? 記録はない。すべてを、完全にすべてを消してしまった。そしてきっと、きみもそうだね。わかっているのはただ、去年のこの同じ時期に、この同じ都市で4日間きみと会い、その前の年は3日間、同じ時期に、同じ都市で会ったということ。短い逢瀬だ。きみはぼくのもので、ぼくはきみのものだった。お互いが、お互いのものだった。
サウスダコタ州かマルタ共和国のどこかの地下室に、消去したはずの我々のメッセージのコピーがまだ、全部保管されている稼働中のサーバーがあるんじゃないだろうか。ふたりで見た景色をネットでシェアした写真が少しばかりあるのは確かだが、いつも細心の注意を払って、ふたりという単位の手がかりは残さないようにしてきた。ただインスタグラムのどこかに、共に過ごした日の空の、二度とは見られない雲の模様を切り取った写真があるだけだ。ああそうだ、オースティンのあの本屋できみが買い、ぼくにくれた本もある。なぜあのとき、プレゼントなんてしないでくれと頼んだのか、あれほど臆病に、慎重になって、「ぼくたちのこと」の形跡は残さないほうがいいなんて言ったのかと、ひどく後悔している。なぜなら今この瞬間、フォークナー氏の私的な通信をちらっと見てひどくうらやましくなり、ぼくたちのことを思い出せるほんのちょっとした痕跡、形跡、手がかりを、ぼくたちはどんなふうだったかを保存しておかなければと、唐突に思ったからだ。これはかきたてるべきではない欲望であり、この場所に入るまでぼくはまさに、残滓のないことで、それに触るとたちまち今週ここできみとこうしていられたかもしれないという妄想のメリーゴーラウンドに乗せられぐるぐる回りだすような象徴的なものを持っていないことでずいぶんほっとしていて、去年ここできみと過ごした4つの夜、その前の年の3つの夜の思い出を運んでくる写真を一枚も持っていないことを喜んでさえいた。一緒に過ごしたのがたったの7夜だけだったとは信じがたいが、そのたった7晩がぼくのなかであまりに大きなスペースを占めていて、おまけにきみも今この街に、おそらく500メートル以内のところにいて、これからの4晩もここにいるということを知っているものだからなおさら、歩いていてもぼくはほかのことなどほとんどなにも考えられない。もうメールはしない、説明など求めずにきみの決意を受け入れると決めていた。きみが最後のメッセージで頼んできたことを命令として受け取ったのだから。《夫がぎりぎりになって同行すると決めたの。お願い、もうわたしにメールしないで。ここで終わりにして、思い出にしましょう。さよなら、愛してるわ》
20回読みなおしたあとでメッセージを消し、それから一切の誘惑を封じ込めるためにきみの携帯番号も消した(メールアドレスは忘れられない、簡単だから)。慰めようとして書いてくれたあの《思い出にしましょう》が、却ってぼくを悩ませている、というのも思い出にするにはどこかに保存する必要があるからで、周知のとおり思い出というものは映像や言葉、物にすがらなければ徐々に壊れていき、明瞭さを失い、輪郭はぼやけ、色が混ざり合って最終的にはぼんやりした光の点のようになり、やがて闇に飲み込まれてしまうのだ。
今でこそ海外からも簡単に本が買えたり、電子書籍で気軽に 洋書が楽しめる時代になりましたが、数十...
さらに読む
セルバンテスの次に世界で多く読まれている スペイン人作家といわれるカルロス・ルイ ス・サフォン。彼の『精霊たちの迷宮』の邦 訳が集英社文庫から出版された今...
さらに読む
ジャンル