■概要
作家である語り手の「私」は、かつて過ごしたパリでの生活に関する文章を執筆したのち、3年間に渡って一切の執筆活動を行えなくなってしまう。その間に、「私」はフリオ・コルタサルの短編小説の舞台となった、実在するモンテビデオのホテルを訪れる。そこでの奇妙な体験を中心的なモチーフとしながら、パリ、カスカイス、モンテビデオ、ザンクト・ガレン、ボゴタで起こった出来事が重層的に回想され、「私」はそこに一連の符号を見出す。そして、それらの符号に導かれるようにして、「私」は、諸々の文学作品・作家を縦横に引用・言及しつつ、フィクションと現実の照応、作家であることと書くこと(あるいは書かないこと)に関する省察を展開していく。
■主な登場人物
・「私」:本作の語り手、作家。
・エンソ・クアドレッリ(Enzo Cuadrelli):「私」の友人、作家。
・マドレーヌ・ムーア(Madeleine Moore):「私」の友人である作家、現代美術家。「私」が体験した奇妙な出来事を元にインスタレーション作品を制作する。
■あらすじ・内容
第1部「パリ」では、作家である語り手の「私」がかつて過ごしたパリでの体験を軸としながら、文学の都市としてのパリ、現在では失われてしまった作家の在り方、「書くこと」と「書かないこと」、「全てを書く」ことに対する作家の欲望についての省察が展開される。
第2部「カスカイス」の冒頭で、「パリ」を執筆したのち3年間、「私」が一切の執筆を行わなくなってしまっていたことが語られる。「パリ」は、本来、「私」が執筆する予定であった書籍の冒頭を飾るはずの文章であった。しかし、「私」が陥った作家としてのスランプのために、結局その計画は頓挫してしまっていた。つまり、「パリ」を第1部とする本書『モンテビデオ』は、その当初の計画が、しばらくの中断を経て、その後に完成したものとして捉えることができる。第2部以降は、再び執筆活動に戻った「私」によって書かれたテクストであり、そこで語られるのは、「私」がいかにして再び執筆を行うようになったのかに関する物語である。
執筆から離れた「私」は、一連の奇妙な出来事を体験することとなり、それらの出来事に「私」は一貫した符号を見出していく。その際に、中心的なモチーフとなるのがフリオ・コルタサルの短編小説「封鎖された扉」(“La puerta condenada”、邦題「いまいましいドア」)である。この短編では、モンテビデオのセルバンテス・ホテルに滞在した語り手が、女性がひとりで宿泊しているはずの隣の部屋から聞こえてくる、赤ん坊の泣き声とそれをあやす母親の声に悩まされる。語り手の部屋とその隣の部屋とは、箪笥によってふさがれた扉で繋がっている。「隣接した部屋」、「部屋と部屋を繋ぐ扉」が、「私」を見舞う一連の出来事に共通する符号であり、これらは「私」のオブセッションとなる。また、コルタサルの短編が「私」の現実の体験と何らかの必然性を持って関係しているように思われるというように、フィクションと「現実」の照応があり、虚構(フィクション)が現実を侵食し、あるいは現実が虚構を侵食する。「私」を取り巻く現実がフィクションによって侵食されていくことは、最終的に、「私」を再び執筆へと向かわせることとなる。
以下が、第2部から第6部のあらすじである。
映画祭に招かれてカスカイスを訪れた「私」は、青年期のスターである俳優ジャン=ピエール・レオーと遭遇する。彼は「私」の隣の部屋に宿泊しており、その部屋から定期的に聞こえてくる大笑いの声に、「私」は悩まされる。
父親の死の報せを受けてカスカイスからバルセロナに帰った「私」は、葬儀ののち、しばらくしてからモンテビデオへの招待を受ける。モンテビデオの前衛詩人に関する記事を執筆したことがあること、そして、コルタサルの短編「封鎖された扉」への関心から、「私」はその招待を受けることにする。「封鎖された扉」の舞台であるセルバンテス・ホテルは実在するホテルであり、コルタサル自身が、そこに滞在したことがあった。ホテルの名前は変わっていたが、建物自体は残っており、「私」はコルタサルが宿泊したまさにその部屋(205号室)に宿泊し、部屋の様子が短編に描かれている通りであることを知る。しかし、ある日、隣接していたはずの206号室が消え去っていることに「私」は気が付く。
再びバルセロナに戻った「私」は、モンテビデオでの奇妙な体験について、友人の現代美術作家マドレーヌ・ムーアに語る。ムーアはその体験に基づいたインスタレーション作品を作成し、その作品は「私」を、かつてのボゴタでの体験、また、ザンクト・ガレンでの文学祭に招待された際の、同じく作家の友人エンソ・クアドレッリとの間に起こった出来事に関する、重層的な回想へと導いていく。現実とフィクションとの奇妙な符号(あるいは単なる偶然)が次々と見出され、そして、そのことによって、「私」は執筆のために必要なインスピレーションを得ることとなる。
結末では、「私」がインターネットの記事を通じて知った、モンテビデオのホテルに関する顛末が語られる。かつてのセルバンテス・ホテルは、改修され、コルタサルが逗留した宿として宣伝されていた。しかし、「私」が奇妙な体験をし、そのことが作家としての「私」のオブセッションとなり、彼を再び執筆へと導いた、かつての狭く薄暗い205号室は、広く明るい部屋に改修されており、コルタサルが短編で描き、確かに実在していた封鎖された扉はもはや存在しなくなってしまった。「私」は二度までも部屋の消失を経験することとなったのである。
■所感・評価
既に数冊日本語訳が存在し、一定の人気を得ているビラ=マタスの新たな代表作として、翻訳出版の暁には、日本の読者に受け入れられることが予想される魅力的な作品である。文学都市としてのパリ、都市と文学、作家であることと書くこと(あるいは書かないこと)、他の文学作品・作家への縦横な言及といった、ビラ=マタスがこれまで探究してきた魅力的なテーマが展開されながら、エッセイと小説を組み合わせたような独特の文体・形式によって物語が語られる。
本作の中心的なテーマとなるのは、フィクションと現実の混合である。「私」という小説中のフィクショナルな登場人物・語り手を取り巻く「現実」が、実在する作家によるフィクション作品によって侵食されていくというように、本作での「現実」と「虚構」の関係は、二重三重に入り組んでいる。「私」をはじめとした架空の登場人物たちによって、実在する文学作品についての省察が展開され、会話が交わされる。「私」が、限りなく作者ビラ=マタス自身を思わせる人物でありながら、設定が微妙にずらされており、「私」はあくまでもフィクショナルな存在であることも、このことに関連して本作の重要な要素である。「現実」との関係をめぐる、フィクションの可能性の探究という意味で、本作は、現代文学の試みの最前線に位置するものであるといえる。
それでいながら、本作の語り口は、時折ユーモアを含み、読み易い。膨大な数の文学・映画・芸術作品(コルタサル、タブッキ、カフカ、ゴダール、トリフォー、ヴァレリー、ランボー、『トリステラム・シャンディ』、『白鯨』...)を自在に引用しながら、「私」が展開する文学的省察はそれ自体が非常に魅力的である。そして、無関係に思われていた出来事に関連が見出されていく過程は、不思議なスリルに満ちており、読者を惹きつける。本作で重要な役割を担う作家コルタサルは、日本でも人気が高く、その点でも多くの読者の関心を呼ぶことが予想される。
展開される物語が内省的であり、一見して分かりやすい物語展開に欠くという点が、一部の読者にとっては難点となるかもしれないが、それは、上述した本作の魅力を損なうものではない。また、翻訳に際しては、他の文学作品への無数の言及・引用が難点となることが考えられるが、それらに関する情報を訳註などで補うことは、本作の性質上、むしろ好ましいように思われる。適切な訳者によって、日本の読者に本作が届けられた場合には、それを通じて、スペイン語文学、世界文学への新たな視野が読者にもたらされることとなりうるだろう。
■試訳(第5部「ボゴタ」第29章からの抜粋)
「秘密」という単語を耳にして、彼[注:エンソ・クアドレッリ]にかねてから尋ねたいと思っていた、ある問いについて私は考え始めた。その問いは、実際のところ、私のコルタサルへの偏執[パラノイア]に関係するもので、彼への偏執は、数時間前にこれまで気づかなかったことが不思議なくらいの、ある事実を発見して以来、高まっていた。クアドレッリとは、他でもない『石蹴り遊び』[注:Rayuela、、コルタサルの代表作]の有名な登場人物と同じ苗字であったのだ。記憶違いでなければ、コルタサルの作品では、クアドレッリは、小説とは、長い時間をかけてその規則を変化させていったジャンルであり、いかなる形式にも属さないという点にこそ、その利点があると確信している老作家であったはずだ。
ここで問題になるのは、間違いなく、あるひとつの偶然なのだが、その頃、偶然は私の人生を侵食しつつあったのだった。微かにではあるが思い出したところによれば、『石蹴り遊び』におけるクアドレッリは、「語り手の批評的意識」、つまりコルタサル自身の批評的意識に対応する人物であったはずだ。そして、他にも、紛れもなく確実だと思われる、一連の偶然の出来事があり、そのことについて私は探究したいと思っていたのだった。カスカイスで、ジャン=ピエール・レオーと私の部屋のテラスを隔てていた、模型の蜘蛛である。
カスカイスでの一夜について語りながら、私は、クアドレッリに、私の来し方に度々現れる、模型の蜘蛛に端を発する一連の偶然についての意見を求めた。カスカイスでの出来事ののち、私は本物のトリクイグモに出くわし、モンテビデオでは絵に描かれた蜘蛛を目撃したのだった。これは、会話を展開するための質問であり、最終的には、彼が『石蹴り遊び』の登場人物と同じくクアドレッリという名であるという大いなる偶然について、話そうと思っていた。
「カスカイスの蜘蛛については、推測を働かせるのは自由だけれども、単にそのホテルのハイパーモダンな気まぐれみたいなものだと思うよ」「それだけかい、クアドレッリ?」「まぁね。その蜘蛛に関して、事をややこしくしたんだったら、レオーはゴダールの映画『ウィークエンド』に出演していて、この映画はコルタサルの短編に基づいているってことを考えてみてもいい」「あぁ。『南部高速道路』だろ」「その通り。だけど、そんなことを考えたって何にもならないさ。違うかい?」「良いかい、全てはコルタサルに繋がっているんだよ」「まさか」クアドレッリが言った。「そんなことを考えたって、ただの無駄足を踏んだ作家になるだけさ。まぁ、結局のところ、無駄足を踏むことにならない作家なんていない訳だけれども」
このクアドレッリの回答は、私には絶好の機会であるように思えた。「どうだろうね」私は言った。「僕は、他でもない『石蹴り遊び』の登場人物クアドレッリと知り合いなんだよ」するとすぐに、大袈裟な身振りとともに、彼は致命的な問いを尋ねてきた。
「だけど、君が言いたいのは、モレリじゃないのかい?」
穴があったら入りたい気分だった。クアドレッリは『石蹴り遊び』の語り手の「批評的意識」なんかでは決してなかった。それどころか、その本にクアドレッリなどという人物は登場すらしないのだ。自分がコルタサルに精通しているなんて一度も言った覚えはないので、彼の作品について間違いを犯すことは良いとしよう。けれども、クアドレッリとモレリを取り違えるなどというのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。現に、その日飲みすぎたのが自分ではなく私であったかのように、彼は私のことを見始めていた。