■概要
19世紀前半にその名を轟かせた実在の奴隷王、モンゴ・ブランコの波瀾に満ちた生涯を追った歴史小説。凄惨を極める奴隷貿易の実態、迫力満載の冒険、西アフリカ艦隊や原住民との攻防、利益をめぐる国際政治の駆け引きが、スペイン、キューバとアフリカを股にかけた圧巻のスケールでつづられる。精神病院に幽閉された老齢のモンゴ・ブランコその人が語り手になって、千夜一夜物語さながらに記憶の数々を語っていく。山のように人を殺してきた。背徳の恋もあった。愛娘のためだけに生きてきた。そして人生の終極に待ち受けていたのは、思いも寄らない驚愕の結末だった――。綿密な史料考証と人間ドラマを融合して奴隷商人の目線から描かれる、稀有な歴史長編作。
ペドロ・ブランコ 〈モンゴ・ブランコ〉の名前で知られた伝説的な奴隷商人
カステルス ペドロの治療にあたるバルセロナの精神科医
モンゴ・ジョン 本名はジョン・オーモンド。ボンゴ川一帯で権勢を誇る奴隷商人
モンゴ・シャ=シャ フランシスコ・フェリクス・デ・ソウザ。三大奴隷商人のひとり
エルビラ モンゴ・シャ=シャの愛娘
ロサ ペドロの妹
フェルナンド キューバに渡ったペドロの伯父
ロサリア ハバナで結婚したペドロの妻
ロサ アフリカ生まれのペドロの娘
ドン・ホアキン ハバナに住む大富豪の有力者
■あらすじ
pp. 13-253(マラガ 1章から12章)
俺は殺したのか。そうだ。たくさんの人を。溺死しそうだが、ここは海じゃない。甲板に集めた黒人どもの異臭が漂う。レシーフェ、それともバイーアだろうか。陸に上がると、硝酸で穴が空いた虚ろな眼窩でドン・ホアキンが会釈してきた。祭り。ハバナのカーニバルだ。享楽の園の少年少女たちが肢体をすり寄せてくる。カステルス先生、俺は気が触れているのか。ガリーナスの王、奴隷商人、海賊で怪物のこのモンゴ・ブランコは、精神病院に閉じ込められているのだ。
「俺に人種差別の意識はなかった。キリスト信者でもない。司教どもの偽善者ぶりを見ればなおさらだ」「自分しか信じないのですか」「死者とはいつでも話しているね。美人で明るいお袋、その倍も年上の親父、可愛い妹がいたマラガの子供時代は、幸せだった。軍人上がりの凛とした親父は、俺の英雄だった。少年の俺は本を読みあさる航海学校の優等生だった。先生、なぜ個室と付き人がなくなったんだ?」「ご家族が経費削減を希望されたので。つづきは明日にしましょう」
口の中で血の味がする。先生にディープキスをしようとして、ジョセフに殴られた記憶が戻ってきた。娘はなぜ顔を見せないのか。窓もないこの部屋で、どれだけ時間が流れたのだろう。ジョセフが呼びに来た。鬼畜と呼ばれた俺でさえ、俺を痛めつけるのを楽しんでいる看守のジョセフが恐ろしい。
「15歳で親父が死んで間もなく、お袋は野卑な漁師と出会い、結婚した。そいつに首ったけになって、やつが俺に暴力を振るうのを止めようともしなかった。俺は酒場で親父の友人だった紳士に出くわし、よくそのボネット氏の家に遊びに行った。ふたりでフランス艦隊に勝利した祝杯をあげたり、マドリード蜂起の話をしたり。ミヨー将軍の胸甲騎兵軍団がマラガに攻め込んできたときは、黒髪に緑の瞳の美少年だった18歳の俺も、砲兵隊に駆り出された。妹のロサとはその1年前から禁断の関係を持っていた。フランス軍との戦闘が始まると、瞬く間に死体が転がる血の海になったが、負傷兵にとどめを刺す擲弾兵の銃剣から何とか逃れて、生き延びた」「ご家族は?」「無事だった。捕虜になった義父が魂の抜けた男になって戻ってくるまで、妹と秘密のエデンの園を楽しんでいた。ボネット氏は、耳と指を切り落とされて血溜まりで死んでいた。ものすごい腐臭がしていた。死体の臭いが染みついたのはそれからだ。放心してさまよい歩いた末に家に向かう途中で、義父に呼び止められた。お袋が真相を知って狂乱し、妹を引きずり出して近所中に聞こえる声で俺を罵倒したという。家に帰れば待ち構えている連中に殺される、妹は修道院にやるからお前は今すぐ出ていけとわめくんだ。俺はその足でカディスへ逃げて、ジェノバへ行く船に乗った」
「美貌と若さを武器にして大西洋を渡り、俺は膨大な富を築いた。愛する女性が死んで娘が生まれてからは、娘のためだけに正気を保ってきた」「愛する女性というのは?」「娘の母親だ」「誰ですか?」それを打ち明けるつもりはない。「最初の航海では、乗組員の一味が積荷の乗っ取りを企んでいるのを俺が船長に密告したんで、寝ていた首謀者が船長に脳みそを吹き飛ばされた。残りの連中は、港に着いてから人気のない坂道で突き落として始末してやった」ジョセフが来て先生に何か耳打ちする。女の影が見えたのは、気のせいだろうか。俺はやっぱり気が触れているのか。
pp. 254-523(アフリカ 13章から20章)
「何年か色々な船で働きながら、各地を渡り歩いた。読むための本は決して手放さなかった」若い美青年の先生と話していると、老いぼれた身に生気が蘇ってくる。「アフリカでは大型の輸送帆船がやってくる前に現地入りして、石炭袋を準備した」「人間のことですね」「族長たちに贈り物を渡し、交渉して頭数を提供してもらう。それが以前からのやり方だった。倉庫を満杯にするには何ヶ月もかかったから、輸送船も積荷が揃うまで待機していた」「書類がどこにあるのか、思い出せませんか」答えてやるものか。「奴隷王のジョンは、ハーフ、クォーター、セミ・クォーターの選り抜きの混血を作り上げて、法外な値で取引していた。初めて行ったハバナの町は、4人に1人が黒ん坊だった。奴隷船の船長になると決めていた21歳の俺は、有力者のドン・ホアキンを訪ねて助力を求めたが、若造の分際では相手にされなかった。幸い伯父のフェルナンドに出くわし、王立沿岸警備隊を指揮する遠縁のマルチェナに紹介してもらえたんで、船の仕事が見つかるまでサトウキビ農園で働くことができた。快速帆船が登場する前は、アフリカへは1年半近くもかかり、ごろつきの寄せ集めだった水夫は5分の1が航海で命を落としていた。アフリカには天下無敵を誇った奴隷商人が3人いた。ボンゴ川のモンゴ・ジョン、ベニン湾のモンゴ・シャ=シャ、そしてこの俺、モンゴ・ブランコがその3人だ。イギリスは1807年に奴隷貿易廃止令を出したが、需要の高さで市場の値段がつり上がったから、大きく儲かる商売だった。俺はアフリカ大陸最大の奴隷貿易拠点を築き上げた。敵対し合う部族の両方に武器を与えて使い方を教え、果てしなく戦争が続くように仕向けて、捕虜を送り込んでもらうことで潤沢な供給を確保したのも、俺が開発した革新的な改変だった。」
「航海は危険の連続だった。航路を外れて食料が底をついたときは、積荷の幼児を殺して食ったりもした。船首旗を海賊旗につけ替えれば、略奪や虐殺もほしいままだった。キューバに着くと、関税逃れで離れた海岸に積荷を降ろし、船を沈めて証拠を消した。農園から逃亡して山に逃げ込んだ奴隷は、何日も追跡されて連れ戻される。猟犬に手足を食いちぎられて使い物にならなければ、内と外に棘がついた鉄の首輪で横になれなくして殺された。足の指を切り落とす罰もあった」生温かい感触がする。足元に水たまりができていた。「漏らしてしまったんですね。今日はここまで」
「キューバでは俺に惚れ込んだロサリアという娘と愚かにも結婚しちまったが、夫婦生活はじきに形骸化した。アフリカ西海岸のガリーナスには、攻撃が難しく防御に強い地の利があった。俺はそこを拠点にすると決め、ボルチモアで快速のクリッパー船を確保した。沿岸300キロに見張り台を置いて、望遠鏡で西アフリカ艦隊の動きを監視し、回光通信機で危険を知らせる警備体制も敷いた。デンマン司令官が率いる艦隊の砲撃を受けて破壊されるまで、ガリーナスのロンボコは不落の要塞だった。38歳のとき、修道院の妹を拉致してアフリカに連れ帰った。別れも交わさずに姿を消して以来の、20年ぶりの再会だった。だが単調な毎日に妹は徐々に精神を病み、最後は手足を寝台にくくりつけることになって死んでしまった。悪運に見舞われないよう、首を落として大切に持っていなさいと呪術師に強く警告されたから、そのとおりにした」
pp. 525-616(ハバナ 21章から26章)
「俺は幼い娘を認知して洗礼を受けさせるために、ハバナに戻った。妻のロサリアは、認知の話を鼻で笑った。一向に手続きが進展しないことを行政官に訴えると、恥ずべき行いをしているあなたに社会の仲間入りができると思うのか、断じて認可はできないと一蹴された。恨みの塊になっていた妻と仲が良かったその行政官は、間もなくこそ泥に殺害された。ロサリアには、甥2人を兄弟でソドミーに興じる関係に誘導してから、行為の現場を目撃させて仕返しをしてやった。俺はほとぼりが冷めるまで自宅軟禁になって、噂を流す上流社会から白い目を向けられるようになっちまった」
「やがてモンゴ・ジョンが没落し、モンゴ・シャ=シャも衰退へ向かった。ガリーナスも粉微塵になった。俺はその後でスペインに帰り、奴隷擁護派に資金と人脈を提供することで政権を転覆させることを図ったが、工作は失敗に終わった」くだんの書類には逆臣たちの名前が記されているのだ。それにしても、娘はなぜ顔を見せないのか。
お父さん、ここがどこだか分かる? カステルス先生を殺めてから隠れているバルセロナの楼館よ。私が来るのはこれが最後。精神科医のプラッツ先生から聞いているけど、よくもそんな嘘を。母親は酒浸りのお針子で、父親は貧しい漁師でしょ。熱に浮かされて幼い私に聞かせてたじゃないの。育ったのは惨めなあばら家、学費を出してくれたのはフェルナンド伯父さん。マラガのボネット氏はお父さんが殺して、お父さんは奪ったお金で逃げたのよ。そして妹、私の母親とは、無理やり関係を持った。その干し首を見ながら育てられて友だちもいない私には、毎日が地獄そのものだった。お父さんを貶めるためなら、誰とでも寝て下僕にしてきたのを知ってた? あなたの血よ。カステルス先生には書類が必要だと言って、私に夢中にさせた。私が診療中の部屋に踏み込んでお父さんを叩いたとき、いきなり先生が私を愛しているなんて言い出したから、カッとなって殺してやったら、お父さんは私にこっそり出ていけと言って自分は死体と一緒に発見され、犯人とみなされた。お金でケリをつけてジョセフをギロチン送りにしたから、もう済んだ話。最後まで苦しむがいい。さようなら。
罵倒され、殴られて、首のどこかが折れた気がする。水たまりに倒れて息ができない。プラッツが打ち壊した箱から妹の頭が転がり出てきた。連中は去った。雨の中で、ルビーを埋め込んだ妹の目が俺をじっと見つめている。
■所感・評価
ストーリーは、高齢になってバルセロナの精神病院にいる現在の視点から、中心人物モンゴ・ブランコの一人称で展開する。治療にあたる精神科医にたどってきた人生を語り聞かせるスタイルで、精神科医が読者を代弁するように質問をはさむのが、読者との間合いをつめる効果を上げている。26章からなる流れは、大きく分けて少年期を振り返るマラガ時代、知恵と才覚で無敵の貿易拠点を築いたアフリカ時代、政治へと転身を図ったハバナ時代の3部で構成される。記憶の時間軸が迷宮のように行き来するため、最初は何がどうなっているのか分からないまま、くらくらする刺激に引き込まれて読み進めるうちに、パズルのピースが埋まるように全体像が浮かび上がってくる。600ページを超える長編だが、読み進めるにつれて加速度的に没入していけるので、型破りのエピソードや残酷さにとまどう序盤の困惑を乗り越えれば、軽快にというわけにはいかないかもしれないが、途中で飽きることなく読破できるだろう。
著者は執筆に5年を費やし、その半分は史実の調査にあてたという。キューバにも足を運び、歴史学者の助言を仰いでいるので、あくまでフィクションではあるが、事実関係の信ぴょう性は高そうだ。三大奴隷王のひとりとされる重要人物でありながら、奴隷貿易時代の話は最近までスペインでもタブーとされてきたためか、この作品が取り上げるペドロ・ブランコはこれまでほとんど名前を知られていない。この人物については、ガリシア州出身のキューバの作家Lino Novás Calvoが1997年に著したPedro Blanco, el negrero(未邦訳)という小説があり、奴隷商人を題材にした翻訳小説は、チャールズ・チャトウィンによる『ウイダーの副王』(みすず書房、2015年)が出ているのみのようだ。(ウイダーの副王とは、本書に登場するモンゴ・シャ=シャのことである。)イギリスが1807年に奴隷交易を廃止したのちにも、キューバでは1886年まで奴隷の使用が黙認され続けていたことも、あまり知られていない負の遺産だろう。取材と調査をもとに奴隷交易末期時代の歴史の暗部に光をあてる本書は、題材の希少価値だけでも翻訳出版に値すると考えられる。
酸鼻を極めた奴隷売買の実態、凄惨な暴力、ハーレムやソドミーなどの描写があるため、万人向けではないかもしれない。ときどきポルトガル語などの原語やアフリカの現地語が入る上、随所に哲学から文学までの識見が織り込まれ、ナポレオン支持者の背景事情など歴史に関わる記述については文章外の知識も求められるという点では、翻訳もそれなりに大変だろう。だが歴史小説としてだけでなく冒険譚としても読み応えのある骨太の内容で、内面の心理描写を通して主人公のモンゴ・ブランコを等身大の目線で自分に重ね合わせることができるところは、本書の大きな強みとなっている。できる限り多くの日本の読者に読んでもらいたい秀作である。
■著者について
カルロス・バルデムは1963年マドリード生まれ。作家、俳優。マドリッド自治大学で近現代史を専攻し、王立国際問題研究所で国際関係学の学位を取得。1999年に最初の小説(ナダル賞最終候補)を発表し、6作目の本書は最高の歴史小説に授与される2020年度エスパルタコ賞を受賞。代々俳優の芸能一家に生まれ、映画やテレビにも多数出演。叔父は脚本家・映画監督のフアン・アントニオ・バルデム、母は女優ピラール・バルデム、弟は女優ペネロペ・クルスの夫でもある国際的男優のハビエル・バルデム。
■試訳(451頁下から2行目から、453頁最終行まで。アフリカで支配力を確立した場面)
俺が後戻りできない道へと踏み込んだのは、そのときだった。天を仰ぎ、神の律法も人間の掟も退けたのだ。なぜかって? いいか、連中は自分たちの王を奪い返すつもりだったからだ。俺はカノン砲が設置してある高いところへ王を引き上げ、青銅の砲身に跨がらせてから、胸を見せるように手下3人に手足を押さえつけさせた。そして王に近づき、遠巻きに見守っている野蛮人どもや舟から見ている輩がしっかり目に入れるよう、ゆっくりと斧をつかむと振りかぶって太陽に刃をかざし、王の胸に振り下ろした。
一回、二回、三回。斧を振るたびに、肉屋に捌かれる豚みたいに肋骨が砕ける音がした。ざっくり開いた傷口に手を差し込み、肉をかき分けて、まだ動いている心臓を探り当てた。そこでそれを引きちぎってから、空に向けて高々と掲げて見せたのだ。木造りの砲台が生贄の祭壇[注 「生贄の祭壇」は補足]テオカリよろしく、地上の悪、残虐さ、死の恐怖が生み出す惨劇を謳いあげる舞台になった。勇猛なサポ王の心臓を空高く差し上げてから、俺は雄叫びを上げた。サタンの業火に焼かれる者の雄叫びをな。黒人どもは声を呑んで、硬い表情で俺を見つめていた。その場の証人として近くに連れてきた呪術師も、同じ顔つきだった。部下たちはあっけにとられて、十字を切ったり、武器を取り落して膝から崩れ落ちたりしていた。メレルは頭を左右に振りながら、しきりに赤毛の口ひげを撫でつけていたね。マルティネスはぶるぶる震えていた。
あたりがたちまち静まり返った。時おりサルが鳴いたり、波が砕ける音がするだけの、恐ろしいまでの深い静けさが広がった。俺の叫び声は不吉な恐怖の前触れのように、ジャングルを縫ってはるかな向こうへ突き抜けていった。いまは亡き王の下にいた黒人たちは、ほぼ半々に分かれ、半数がジャングルに戻っていった。残りの連中は呪術師に近づいて、砲台の足元近くまで寄ってきた。まだ武器は手にしていたが、妙に穏やかな雰囲気だった。やつらはそのうちに半円形になると、俺の前にひざまずいた。呪術師はその間も何かを唱え続けていた。マンディンゴ族の剽悍な戦士の多くは、俺のアフリカ防衛隊としてそれから長年にわたって仕えてくれた。俺はサポ王の首を刎ね、縮れた髪をつかんで、血の滴る頭部を持ち上げて一同に見せてから、小脇に抱えて砲台を下り、呪術師に歩み寄った。間近で見る呪術師は、そうとう歳のいった皺くちゃの小さな男だった。だが目は熾火のように爛々と輝いて、俺と刎ねた首とを交互に見つめていた。彼は何か言ってから、俺の顔と手についた血を自分の指ですくい取り、王の首にも同じことをして、身をかがめて呪文を唱えながら、その血を地面の土とこね合わせた。それから、身振りで俺に前かがみになるようにうながした。おおぜいの命を奪ってきたこの俺が、頭を下げたりすると思うか。ためらったが、そのとおりにしてやると、血をこねた土くれを俺の髪に振りかけた。
それは、俺こそがロンボコの無二の主君であることを表明する儀式に他ならなかったのだ。遠くにいたブロン、ビクーニャ、カーニーたちの一団が、畏怖と驚愕が入り混じった顔をして近づいてくるのが見えた。呪術師は俺の頭に指を撫でつけると、呪文を唱え終えた。そして皆に畏れられている自らも、俺の前にぬかずいた。ガリーナスの王、モンゴ・ブランコの前にな。