■概要
妊娠・出産が完全に人工的に行われるようになった街で、ありえない妊娠をしてしまったゾーイは、友人のチャールズの助けを借りて街を逃げ出す。街の外の世界で多様な人に触れ、様々な経験を経たのち、ついに子を出産する。
■主な登場人物
ゾーイ: バイオテクノロジーを学ぶ大学生。「街」で生まれ育った「新種」の女性。
チャールズ: 博物学的な知識を持つ一方で、コミュニケーションに難がある研究者。
ゾーイの嘘により一連の出来事に巻き込まれる。
シルバー: 「街」の外で農場を経営する男性。農場では「人間」を使った実験を行っている。
パリー: チャールズとゾーイが身を寄せた「人間」の集落の創設者。
■あらすじ
人々の生活が高度に管理された近未来の「街」。ここでは、人のゲノムが編集され、可能な限りの疾病が受精卵から取り除かれる一方、生殖能力に関連する一連の遺伝子が制御され、子どもは生殖補助によってのみ受胎し、人工子宮の中で育ち、生まれた人々は「新種」と自ら名乗っていた。しかし、この街に住む大学生のゾーイがありえない妊娠をしていることが判明する。生殖に関わる規定を定めた「プロトコル」に反した事態として、検査を行った病院で取り調べを受ける中、性的関係を持った相手としてゾーイが口にしたのは、大学の研究旅行で知り合った研究者のチャールズの名だった。実際には、チャールズには研究のための手助けをしてもらっただけであったが、チャールズはゾーイが嘘をついていると訴えもせず、当局の出頭要請に応じてやってくる。しかし、ふたりともに自然妊娠を可能にする遺伝子は「正しく」制御されており、、ゾーイの妊娠の原因は不明であった。堕胎の可能性を示唆され、ゾーイはチャールズの手助けを得て病院を抜け出す。二人はまず郊外の森に逃れた後、チャールズの家に行き、彼の家族の助けも借りて、街の外に逃げ出す。
金銭と引き換えに手引きをした運送業者の助言により、二人はとある「農場」にたどり着く。そこは、シルバーという男が運営している農場であった。ゾーイの妊娠を知ると、シルバーは出産まで手助けすることを請けあう。実はシルバーの農場では、ゲノム編集された子どもたちが、人工子宮ではなく、捉えてきた「人間」の若い女性によって出産されていた。また、「人間」の掃討作戦に従事させる目的で、羽を生やすなどのゲノムを編集された「サイボーグ」も産み出されていた。使用人として使われている人たちも捕らわれてきた「人間」だった。状況を知ったチャールズはシルバーに歯向かい、屋敷の一室に幽閉されてしまう。一方でゾーイは、屋敷の図書室で見つけた「人間」の出産に関する書籍を読み、これから起こり得ることに恐れを抱くとともに、安心して出産を迎えるため、事を荒立てないように過ごしていた。しかし、ある晩、何とか部屋を抜け出したチャールズがゾーイの元に現れ、ゾーイの妊娠の秘密が判明したこと(ボルバキアという細菌が関与)を告げる。シルバーは出産まではゾーイを丁重に扱うだろうが、その後どうされるか分からないと諭され、使用人の手助けを得て、二人は屋敷から逃げ出す。
二人は「街」と反対側、西に向かう。渡河を行ったり、野宿をしたり、大雨に降られたりと疲労困憊の二人の前に、一軒の小屋が現れる。中には男性の遺体があった。残された書類から、ドナルド・デイビスいう名の男性がこの小屋に住んでいたことが分かる。一週間ほどこの小屋で過ごし体力を回復させた二人は、ドナルドの作っていた地図を持ってピーターズ・ヒルという場所を目指し、3日後に「人間」の集落を見つける。自分たちは街の兵士による掃討作戦から逃げ出してきた「人間」であるという作り話をし、また、ドナルド・デイビスの名を出すことで、集落に受け入れてもらうことができた。
この集落の創設者のパリーの家に居候させてもらい、妻と娘とも打ち解け、ほかの人間たちと共に、つかの間、中世に戻ったかのような暮らしを穏やかに過ごしていた。しかし、ゾーイが妊娠32週を迎えた頃、実際に掃討作戦から逃れてきたケネスという男性が集落に現れ、チャールズとゾーイの作り話の矛盾が発覚してしまう。さらに、ドナルド・デイビスの殺害まで疑われた二人は、何とかデイビスの小屋まで逃げ帰る。しかし、小屋の扉が開いているのを不審に思い、様子をうかがうと、中にシルバーの農場から二人を追ってきた戦闘用サイボーグが一人いることが分かる。隠れている間に、二人を追って集落からやってきた男二人が何も知らずに小屋に入り、サイボーグと遭遇して悲鳴をあげるのを耳にすると、チャールズとゾーイはその場を一目散で逃げ出した。川伝いに進んでいくと、デイビスの残していたカヌーを見つけた。二人はカヌーに乗り下流に逃げる。途中、転覆などのアクシデントに見舞われるものの、ついに海にたどり着く。浜辺に居場所を作り、出産のときを待った。
ついに6月の第四週の真夜中に破水し、チャールズの手助けを得て、明け方に女の子を産み、ヴィーナスと名付ける。しかし、落ち着く間もなく、二人を探す警備隊が浜辺にやってくる。二人はまたカヌーに乗って逃げ、潮の流れに任せて、外洋の島にたどり着く。そこで産後の疲れを癒したゾーイは、チャールズと共に島を散策する。近くの島に行ったときに、ルイスという、やはり街から逃げてきた男性に出会う。次第に打ち解けていった三人は、内陸にあるという理想の都市「リバティ・カウンティ」を目指して旅立つことを決める。しかし、ある日、二人を追跡するサイボーグが再び現れる。チャールズはゾーイを逃すため二手に分かれることを提案する。再び妊娠したことを告げるゾーイ。感染が続く限り、彼女と、その娘たちは、そうやって子孫を増やすのだ、君がその始祖となるのだ、とチャールズが言う。ゾーイはヴィーナスを連れてカヌーに向かうのだった。
■所感・評価
SFとしても冒険物語としても秀逸な作品だ。主人公のゾーイ(語り手)と友人チャールズが「街」の外に出て世界を発見していき、追跡者から逃れるために森をさまよったり川を下ったりして、最終的に島に落ち着くのかと思いきや、一転して内陸の都市を目指すことになるが、出発の前に敵が現れて、結局二人は別れ別れになって物語が終わるという、最後まで手に汗握る展開だった。また、現代社会ですでに実用化されている技術(バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなど)のさらに進化した形が存在する近未来の描写は、物語の中の複数の登場人物が礼賛しているほどには、理想の社会には思えないものである。例えば、「人間」を掃討するための作戦には、「街」の住人は参加せず、ロボットとサイボーグ(ゲノム編集で生まれた戦闘用の種)、そして自動ブルドーザーによって完遂される。掃討作戦から逃れてきた人間の男によってなされるこの凄惨な殺戮の描写は、現代のドローンなどを使った非人間的な戦闘を思い起こさせるものだ。一方、AIやロボットが仕事をこなす「街」では、人が生きる意味を見失い、自殺率が高いことが描かれている。人工子宮によって子が育てられ、おかげで女性は9か月ほどの妊娠期間の苦痛と、出産の痛みから解放され、男女が「平等になった」が、一方で、従来の出産を経ないため母と子の絆が壊れてしまったことも語られている。そして、自然妊娠をしないはずの主人公が、細菌感染によって妊娠し、出産後すぐに次の妊娠をしてしまうくだりは、チャールズの「君が新しい種族の始祖になるんだ」という前向きな発言がされているにも関わらず、単為生殖する人間を想像し、何か空恐ろしい感覚を覚えて物語を読み終えた。設定をSFにしながら、現代社会が抱える問題や、母性、宗教と科学技術についても深く考えさせる作品となっていて、個人的にはカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を思い出した。著者のインタビューによると、「街」はバイオテックの中心地であるアメリカ合衆国のボストン付近を想定しているという(Europapress、2022年11月8日)。登場人物が英米の名前なのはそのためで、日本で翻訳出版する際にも、読者に受け入れられやすい点であると考える。
■試訳(第23章、p.161~p.164の5行目)
チャールズが夜更けにわたしの部屋に現れたとき、わたしはきっぱりと、ここに留まりたいと告げた。よく考えた上でのことだし、シルバーが悪い人だとも思っていなかったし、わたしや赤ちゃんに何らかの危険が及ぶとも思っていないと言った。わたしたちは暗闇の中で口論を始め、少しずつ声が大きくなっていった。チャールズは出ていこうと強く言い、わたしたちが農場で見た恐怖をひとつずつ挙げていった。しかしわたしは、すべて合法だし、結局、全面的に当局の支援を受けているので何も心配する必要はないと言った。それに、わたしは妊娠26週で、移動をしたくないのだ。胎児はすでにレタスくらいの大きさに育っている。これ以上の冒険はしたくない、それに、誰かが発見して、とても重要とされている、その「わたしの秘密」とやらについて、チャールズが知っていることを聞かせてくれないのなら、わたしの考えは変わらないと言った。
チャールズは躊躇した。わたしの皮肉な声色が彼をイライラさせた。彼は、このように暗闇の中で、ささやき声で説明するのではなく、落ち着いてわたしに説明したいのだ、今はその時ではないのだ、と言った。わたしは彼がすべてでっち上げていると答えた。シルバーと意見が合わないため、すべてをでっち上げたのだ。部屋の暗闇の中に長い沈黙が訪れた。彼は、何を言っているか分からない、とまた不満げに言った。わたしは、たった今思いついたその考えを主張した。すべてはシルバーと彼の間の敵対心の問題であり、二人は些細なこと、つまらないことで、プライドをめぐっていがみ合っているのだ、ばかばかしいエゴの戦いだ。耐えられない。
「些細なことだって? 今のこの状況が?」チャールズは傷ついた様子で尋ねた。
「ネアンデルタール人とか、精神科医とか、サラブレッドとかの話の事よ」
チャールズは彼らしい笑い方で笑ったが、わたしは引き下がるどころかその考えを繰り返し言った。わたしは怒っていたのだ。
ついにチャールズがわたしの話を遮って、わたしがボルバキアという生殖寄生虫に感染していると告げた。わたしの反応が見えなかったので、彼は続けた。
「細菌の一種で、胚に影響を与え、女性化し、宿主の行動を変えるんだ」
チャールズが黙ると、圧倒するような沈黙が訪れた。
「単為生殖を引き起こす可能性もある。きみは知られている限り最初のケースのようだ。研究室での実験中に感染した可能性がある。それを知るのは簡単ではないけれどね。ボルバキア感染は昆虫や甲殻類では一般的だけれど、脊椎動物ではまだ見つかっていないんだ」
わたしは答えなかった。 チャールズは話が聞こえたかどうか尋ねてきた。聞こえたとわたしは答えた。
「ナイト先生が発見したんだよ」
チャールズは一呼吸置いた。ナイト医師の名を挙げれば、すべてがより真実味を帯びてくるだろうと考えたのだ。
「そして現在、シルバーが研究している。バイオテクノロジーや植民地化に応用できる可能性がある。この細菌に感染した女性を宇宙に送れば、植民地化が大幅に促進されるんだ。なぜなら、それは生殖の手段を持つってことで、都合のよいときにプログラムされた単為生殖ができるようになるからだ。クローンによる植民地になるけれど、遺伝的にほとんど汚染されずに生存可能で、唯一汚染があるとすればエピジェネシスによるものだが、数は少ないだろう。この女性たちは特別なレジームの元で生きていくことになるからね。偉大な生殖者たち、ミツバチの巣のごとく、女王蜂のように世話をされるんだ。他にも多くの用途が考えられる。というのも、おそらくこれは可逆的な感染症だから、多分単純な抗生物質とか、類似のものを使うだけで、必要に応じて感染を止めることができるだろう。研究内容が確認されたら、君はどこにも行かせてもらえなくなる。君は、常に監視下に置かれ、モルモットのように扱われるだろう。君が実験動物になるんだよ! 奴らは君を騙すだろうから、君が反応しようと思ったときには手遅れになっているんだ!」