■概要
21世紀末、教師は一握りの特権階級の子弟にのみに授業を行い、大半である庶民の子供は人工知能によって教育されていた。メリダでは、ローマ劇場の傍で活動する小さな古典劇団の団員たちが、人間の本質を保とうと闘っていた。彼らは両階級を隔てる壁を破る手段として女教師ベネチアを招き入れ、優秀なアルキビアデスを教育するよう要請する。その教育は、教師と生徒ふたりの人生と人類の未来を変えていく。
■主な登場人物
・ティマンドラ・ガリステオ(ベネチア) 南西欧州国際学園の副校長でラテン語の教師。
・アルキビアデス 優秀な頭脳の持ち主。低層階級のため人工知能による教育を受けているが、体制に隠れて祖父よりラテン語の読み書きを教わっている。
・ディマス・イバリ アルキビアデスの祖父。南西欧州国際学園で用務員として働く。プロセルピナの古典劇団の創立者で相談役。
・セルヒオ・エストレーラ 元心臓内科の医師。ベネチアの父親を看取った経緯がある。現在はプロセルピナの古典劇団の役者で団長。
■あらすじ
発案より20年の時を経て「教育とテクノロジーに関するタニアプログラム」が2030年9月に始動した。これにより教育は教師からAI主導のシステムに移行した。2年後、世界は大洪水と新種の伝染病蔓延に見舞われる。混迷した世界の再構築にタニアプログラムは大いに貢献し、その結果、社会は特権階級のエリートと低層階級の庶民に選別された。ラテン語が特権階級の常用語となり、エリート子弟のための全寮制の学校もできた。庶民の子どもは、ラテン語はおろか、書字や読書も法律によって禁止され、タニアプログラムが個々の特性に合わせて作成したカリキュラムの授業を、PCを介してアバター教師から受けるシステムになった。高校卒業までにAIが生徒に適した職業を選択し、適切な就学コースに振り分け、3割の子どもは就労に不適格と判定され、娯楽コースに誘導された。
ベネチア・ガリステオはメリダノバ(旧メリダ)にある南西欧州国際学園の副校長で、ラテン語の教師を務めていた。本名をティマンドラと言った。エリートはその功績により与えられた尊称を通り名としていた。一方で庶民は呼称に関する法律により、名前の最初の2文字で呼ばれた。例えば用務員のディマスはディだ。そのディマスから、ベネチアはディマスの孫のアルキビアデスが書いたという日記を渡された。書字は違法と知りつつ、タニアプログラムの生徒が書いたものに興味をそそられたベネチアはノートを開いた。冒頭はスエトニウスが書いた『英雄伝』の最初の文章だった。ベネチアは本を手にするはずのない少年が古典を読んでいるという事実に衝撃を受けた。続いて、カメラで監視される毎日や学びに対する制限、生まれると同時に割り当てられるコードナンバーに対する疑問などが綴られていた。最後のページは「本当の先生へ」と題した手紙で、生身の教師の授業を切望していた。教えよう! 学園の生徒にはない少年の学びへの意欲は、ベネチアの人として、教師としての心に火をつけた。それだけでなく、人知れずガンと闘う孤独なベネチアに、生きる活力を与えた。
ディマスが孫の教師としてベネチアに白羽の矢を立てたのは、敬愛する恩師マヌエル・ガリステオの娘であるところが大きい。かつて対面授業の重要性を説いた本を出したマヌエルは、共感した教師たちの模範となっていた。タニアプログラム導入が決定すると、マヌエルは大規模なデモを各地で主導し中止を訴えた。だがAIによる教育システムは開始。多くの物事が人工知能によって操作され、人は人間性や感性を失くす方向へ進んで行った。
ベネチアとアルキビアデスの授業は、ディマスが所属する古典劇団の小部屋で行うことになった。授業初日、半ば上の空で学園の授業を終えたティマンドラ―ベネチア―は、ラゴ駅へ向かう地下鉄に乗った。駅を降りると劇団の看板を目印に歩く。かつての風光明媚だったプロセルピナは廃れ、ゴミと悪臭が漂う危険な街に変わっていた。突然近くで男の声がした。振り向くと、男は劇団長のセルヒオ・エストレーラだと名乗った。どこか懐かしい顔に記憶を辿る。エストレーラ先生! 彼は、ベネチアの父親の最期を看取った心臓内科の医師だった。AIは次々に人から職を奪い、医師も例外ではなかった。演劇は娯楽としてタニアプログラムに認可されており、役者たちはAIの統制下にあった。しかし、その裏でセルヒオたちは、世界中に広がる地下組織、レジスタンスの活動をしていると打ち明けた。その目標は人が人らしく、よりよく生きる世界の構築だった。その一環として劇場の中で子供たちに読み書きや文化を教えていたが、アルキビアデスは特に優秀で意欲的な少年だと言い、ティマンドラの協力を感謝した。
週3回のアルキビアデスとの授業でティマンドラは教えることの喜びを再認識していた。ある日、アルキビアデスは自分の身の上を語った。タニアプログラムの1期生だった父親は娯楽コースに選別され、酒とドラッグに溺れて亡くなっており、母親は生まれて間もないアルキビアデスを残して消えたまま消息不明だった。アルキビアデスは自分のコードナンバーAl221117の意味を知りたがった。ティマンドラは調べる約束をする。
授業の前に会話を重ねるうちに、ティマンドラはセルヒオに惹かれていった。昔、セルヒオと父親マヌエルがよく話していたのを見ていたティマンドラは、話の内容が知りたくて土曜日に郊外で会う約束を取り付ける。セルヒオはマヌエルの遺言だと言って次のことを語った。タニアプログラムが始動した後、マヌエルは表舞台から去り、小さな妨害組織を作った。右腕になったのは元生徒のディマスで、教師時代に知り合いだった著名な教育者マルタ・マリオットも引き入れた。目的は、優秀な教師を集め、タニアプログラムと並行して学校を開くことだった。2年ほど地下活動が続いた頃、大洪水が起きた。その後メリダノバに南西欧州国際学園が開校されるにあたり、マルタが校長に抜擢された。マルタは教育財団と折衝を重ね、主義の放棄を条件にマヌエルを教師に迎えることに成功した。裏切り者と言われてまで学園の教師となったのは、娘をタニアプログラムから遠ざけるためだったとティマンドラは知った。またセルヒオはコードナンバーの意味も知っていた。死亡日。つまりアルキビアデスは2117年1月22日に死が確定していた。
ディマスを用務員として学園に引き込んだのはマヌエルだった。マヌエルの入院をきっかけにセルヒオとディマスは出会い、信頼を育んだ。セルヒオがレジスタンスの存在を知ったのもその頃だった。その後職を追われ、行き場を失くしたセルヒオに劇団の創立をもちかけたのはディマスだ。目的は芸術や文化を介して民衆に様々なメッセージを届けることで、すでに世界中に数千人の仲間がいた。レジスタンスの最高責任者だったマルタは、学園の出張を隠れ蓑に、世界中を飛び回る中活動を広げていった。マヌエルとの約束でティマンドラを活動には巻き込まなかったが、セルヒオは迷うことなくティマンドラをアルキビアデスの教師に選んだのだった。
週明けの月曜日、ティマンドラは隠していた病気や劇団について現校長のサウサンプトンと口論になる。嫌な気持ちで部屋に戻るとマルタから電話があり、翌日の訪問を約束する。久しぶりに会い近況を報告したティマンドラに、マルタはレジスタンスの計画を明かした。アルキビアデスに学園で必要な知識と知恵を学ばせ、将来教育財団のトップに据えて改革を行うというもので、このままでは来年度にはプログラマーコースへ入れられてしまうアルキビアデスを、学園へ入学させることが急務になっていた。そこでマルタは切り札としてかつての教え子サウサンプトンの本名と出自や経歴、そしてひた隠しにしている庶民女性との恋愛についてティマンドラに教えた。
次の授業の日、ティマンドラは風邪で寝込んでいるアルキビアデスの欠席を告げに来た祖母ディノマカの話を聞いた。ディノマカは、タニアプログラムに翻弄され短命に終わった息子マヌエルと生まれて間もないアルキビアデスを置き去りにしたマヌエルの妻ニナについて語った。またディノマカは、まだ年端のいかない孫の将来を、革命という大義名分で自分たちが決めつけてしまうことに懸念を抱いていた。ティマンドラはアルキビアデスの意思を尊重すると約束した。ディノマカの話からニナがエリート出身だと分かり、ティマンドラはアルキビアデスの入学のために彼女の行方を探すことを決意する。マルタを訪れてから2日後、ティマンドラはサウサンプトンに彼の本名も、プライベートについても全て知っていると明かす。財団に校長の座から下ろされることを恐れるサウサンプトンに、通報はしない代わりにニナの捜索を頼んだ。
夕方には、ディノマカとの約束を果たすためにアルキビアデスにレジスタンスの計画を打ち明けた。アルキビアデスが選ばれた理由や学園で学ぶ必要性とそれに伴う大きな犠牲についても教え、引き受けるかどうかはゆっくり考えるようにと締めくくった。アルキビアデスはコードナンバーについても知りたがったが、その役目は祖父母に任せた。次の授業の日、コードナンバーの意味を知ったアルキビアデスにティマンドラは今の気持ちを訊ねた。計画の遂行の強敵は自分自身の中にある恐怖心と揺らぐ信念だと少年は冷静に答えたが、本心を問うと、父親の死を許せないと怒りをあらわに号泣した。憎しみからは何も生まれず負の感情に取り込まれるだけだと、少年を抱きしめながらティマンドラは諭した。
レジスタンスの最高責任者アンドレス・アレクサンドレがメリダノバに来ることになった。現在教育学者として教育財団に勤めるアンドレスは、フィールドワークと称して世界各地を回りレジスタンスの各支部と連絡を取っていた。ティマンドラの学生時代の恋人で、エリートの世界を捨て庶民になると言って去っていった男だったが、こんな形で再会するとは思いもよらなかった。土曜日にマルタの家で集まることになり、人目を避けるためにティマンドラとセルヒオは前日の夜に出向いた。マルタは深刻な悩みを抱えているのか、沈んでいて覇気がなかった。久しぶりに見るアンドレスは年相応になっていたが、長年の二重生活で疲弊しているように感じた。ティマンドラはアルキビアデスも同じ道を歩むのかと思い心が痛んだ。様々な意見が交わされたあと、大人とは違う視点を持ったアルキビアデスの意見を聞くために、彼を会合場所の図書館に招き入れた。図書館自体を知らないアルキビアデスは入った途端、感激のあまり茫然と立ち尽くした。興奮を抑えて計画のすべてを聞いたあと、アルキビアデスは死亡日が来たらどのように殺されるのかと質問した。重い空気が流れる中、観念したマルタは息子から聞いたという真実を話し始める。彼女の夫が運営する個人の小さな製薬会社コンファルマが多国籍企業にまで成長した影には、タニアプログラムを推進した国際教育財団への協力があった。30年前、会社は時限式のマイクロカプセルを作った。このカプセルは胎内で庶民の子供に埋め込まれ、AIが算出した死亡日になると毒物を体内に拡散させて心停止を起こす仕組みになっていた。すべてを告白したマルタの体調が急激に悪化し、手を尽くす間もなく亡くなった。
数日後、サウサンプトンの自宅に招かれたティマンドラはニナの消息について聞くことになる。来期、管轄外からの入学を希望する財団理事の息子がいて、母親の名前がニナだった。その年恰好を聞いてティマンドラはアルキビアデスの母親だと確信したが、問題はブリュッセルに住むニナとの連絡方法だった。財団側に不審に思われる行動は禁物だ。そんな中、劇団員のカーラがその役目を申し出た。プロセルピナ育ちのカーラはディマスの息子マヌエルの幼馴染でニナとも面識があった。カーラの余命はあと3週間。それまでにニナを説得し連れてくると約束した。「休戦の日」と呼ばれる夜祭前夜、カーラの功績でティマンドラの家を突然訪れたニナは自分の過去を語った。ニナの父親はタニアプログラムの生みの親エウヘニオ・ジェンサーだった。有名人の子供であることに反発したニナは庶民の生活に潜り込み、マヌエルと出会った。慎ましい幸せを夢見たが父親に見つかり、アルキビアデスの命と引き換えにエリートの世界へ戻らざるを得なかった。再婚して生まれた息子エマヌエルの南西欧州国際学園入学を足掛かりに、アルキビアデスとの再会を思い描いていた。ニナは、アルキビアデスに夫の苗字をつけ、エリートの子息として入学させることを約束する。その後監視カメラの目を欺くためにサウサンプトンも巻き込んで、ニナはディマス一家と再会を果たした。肝心のアルキビアデスは眠っていたのだが。実子の入学手続きのためメリダノバに来た夫のピーターに、ニナはアルキビアデスにストフスキーの苗字を授けるよう懇願した。だが聞き入れて貰えなかった。あまつさえ財団内のAIの勢力拡大が止まらず15年後に人類はAIに統治される見込みだと告げた。
劇団でアルキビアデスと再会を果たしたニナは自分の苗字ジェンサーを継承させると言い、ピーターから聞いた話をティマンドラたちに伝えた。小部屋に集まる誰もが人類の存続をかけた戦いの厳しさを分かっていた。それがひとりの少年の肩にかかっていることも。「せめて挑戦してみるよ」アルキビアデスの言葉に、ティマンドラとセルヒオは失敗に終わるのではないかという予感がした。すべてが遅すぎた。人類は人類によって滅ぼされるのだ。このままでは人類は暗闇の世界へ進むかもしれないと悲観的になったニナに、アルキビアデスは言った。「暗闇の中でも空気の流れと灯りを感じながら生きていける。なぜなら僕の愛する人たちが教えを通して僕の心に窓を開けてくれたから」
■所感・評価
これはエリート校で教育を受け、エリートの社会しか知らない教師ティマンドラと、庶民の社会とAI主導の教育しか知らない少年アルキビアデスの交流を軸に、人の人たる所以は何か、教育とは何か、昔から引き継がれてきた文化の教育における役目とは何かを問う小説。高度技術により発展を極めたAIがやがて人類を支配し、人を待ち受ける未来は暗黒の世界と言う点でディストピアと分類されがちだが、どちらかというと画一化された社会で真の自由や幸せについて熟考するヒューマニズム小説ではないだろうか。教師として長年現場に立ち続けた筆者ならではの教育に対する思い入れを感じるとともに、哲学者らしく話の節目でプラトン対話篇『アルキビアデスI:人間の本性について』や、スエトニウスの『皇帝伝』、あるいはプルタルコスの『英雄伝』など古典文学を引用して教師が少年を導く場面は印象的で、時代は変わっても人間の本質は変わらないことを示唆している。
正味244ページの作品を序章、終章を含めて36章に区切ってあるので1章の量は少ない。これはそれぞれの出来事を詳細に描写したり、登場する人物の隠された過去や心情を丁寧に掘り下げたりするための工夫と推察するが、良し悪しは読者次第というところか。
昨今、日本も含め先進国と言われる国々では人工知能は、特に労働面において人手不足の解消に大きな役割を果たしている。しかしAIの更なる発展に伴い、将来仕事を奪われるのではないかという不安も生じていることから、人類は未来に向けてどうあるべきかを考えるきっかけになる1冊ではないだろうか。また教育面に関しては、海外ではコロナ禍によるオンライン授業が小学生も対象に行われていたことは記憶に新しい。苦肉の策だったとは言えモニター越しの授業は教師と生徒の精神に負担だったのではないだろうか。教育とは単に与えられた教科を消化するのではなく、周りの人々との触れ合いを通して精神的に成長することにあると気付かせてくれる本であることは間違いない。
■試訳 プロローグ:始まり P7~9
それは無限の可能性を秘めた事業、そう、途轍もない一大事業だった。
その事業を始動させるために、彼らは影響力のあるオピニオンリーダーたちに戦略を立てるよう依頼した。その時を境に、権威ある大学や国際的な組織の数百という調査研究が学校教育の失敗を指摘し始める。政治やマスコミはこのテーマを大々的に取り上げて論戦を繰り広げた。毎日のように政府が規定を発布したりそれが新聞の一面に取り上げられたりするたびに、親たちは否応なしに教師への信頼を失くしていった。こうして僅か20年の間に下地は整えられ、誰もが教育改革が必要だと思うようになっていた。
2030年9月にエウヘニオ・ジェンサーが人工知能を駆使して作成した「タニアプログラム」が始動した。著名な教育者で社会学者のエウヘニオ・ジェンサーは国連で行った有名なスピーチの中で、「我々の目標は正義と平等です。それ故にあの旧弊な集団である教師陣に取って代わる時が来たのです。タニアは生徒の能力を個別に診断し、興味とモチベーションを保ちながら、どの科目も最速で学習できる方法を決定します」と宣言した。始動後、全世界の子供に自分と同じ人種でしかも異性の魅力的なアバター教師が配備されるようになり、そのアバター教師は学習意欲を高めるために生徒の好みと興味に合わせた楽しい授業を行った。タニアのアバターには教師の欠点ともいえる感情の起伏や迷い、間違い、疲弊感といったものは皆無で、その差は歴然としていた。
学校は時を待たずして個人学習センターに成り代わり、机には常時タニアと繋がっているコンピューターがあった。本と鉛筆やノートは禁止された。教室にはやっと静けさが訪れた。なぜなら生徒はオーディオと集中力を測るスキャンが搭載されたヘッドセットを通して授業を聞くからだ。タニアは学習システムの補強にバーチャルリアリティーを導入し、幼いころから適した職種や娯楽への方向付けを行った。みんなが何十年も待ち望んだ真の教育革命が起こったのだ。失敗や問題も、宿題や黒板もなく、教師もいない学校になった。
それから2年後、世界に大異変が起きた。2032年のあの大洪水だ。北極圏氷床の融解により多くの町が水に沈み、続いて新種の感染症が次々に発生し蔓延した。この時、タニアプログラムはその能力を最大に発揮し、世界の再構築に貢献した。混沌とした世界は人工知能によりふたつの階層に分断された社会になった。世界に漸く平和が訪れた。
プログラムの開始間もなく、職を失くした教師たちがほかの仕事を求めてさまよっていた頃、エリートの子弟のために密かに教師を続けている人たちが在ることを誰も知らなかった。その選りすぐりの子供たちは教師の生の声で授業を受け、向かい合って言葉を交わしていた。やがてラテン語が上流階級の常用の言葉として広がり、将来の支配者たちを育成するために従来の学校を開校することになった。その時、庶民は初めて教師が絶滅していないことを知った。だが若者たちは教師そのものを知らず、懐かしむのは一握りの年老いた人々だけだった。
こうしてアルキビアデスの物語が生まれた。あれは本当に不思議な時代だった。