■概要
不動産屋で働く30代の女性が、売り物件の屋敷の掃除をしているところに、まばたきをしない7歳の少年の幽霊が現れる。彼女は、そして少年は、その屋敷のループから解放されるのか。スペイン現代文学の旗手バルバ、待望の最新作。
■あらすじ
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不動産屋に勤める36歳の女性は、客を案内するために売家の台所を掃除しているとき、その少年に会った。制服を着た、まばたきをしない7歳くらいの少年。「どうしたの?」「何か用?」「ここにいたらだめよ、人が来るんだから」。返事をしなかったが、やがて少年は、さよならというように手を振り、廊下に出て、見えなくなった。
売家は、20世紀半ばに金持ちが居住性よりも見栄えを優先させて建てたような屋敷だ。300平米の2階建で、庭にプールがある。
少年を見たことを、彼女は不動産屋の社長には話さなかった。同居している男に話そうとしたが、話がうまく続かない。男は、大学で生物学を教えている、キノコの研究者だ。2年前に不動産屋に客として来て出会い、それまで誰とも同棲の経験がなかった彼女は、失敗するならこの男でいいか、という程度の気持ちで一緒に暮らし始めたのだった。
少年を見かけた翌日、彼女は初めて社員としての規則を破った。あの屋敷の合鍵を作ったのだ。その午後、たまたま時間ができて屋敷に戻る。台所で物音がする。だが、いたのは少年ではなく自分だった。もう一人の自分が、「どうしたの?」「何か用?」「ここにいたらだめよ、人が来るんだから」と、昨日の自分と同じことを言う。自分はこんな後ろ姿をしているのだろうか、こんな威嚇的に話すのだろうか、と彼女は居心地が悪くなる。
携帯の自分の写真と見比べていると、父の写真が目に入り、会いにいくことを思いたつ。10年前に母が他の男と逃げてからひとりで暮らす父は、元理容師で、相手が話すのを待つ習慣があり、娘に何かありそうだと思っても問い詰めない。彼女は、自分の幽霊のことを話そうか迷うが結局やめ、バスルームでシャンプーしてもらって帰る。
その翌日、屋敷に行くと、やはり自分の幽霊だか分身だかがいて、同じせりふを繰り返す。携帯で写真を撮ろうとするが写らない。もうよそうと思いながら、こっそり屋敷を訪れることを続けるが、その度に自分が現れる。ある日、そのもう一人の自分に後ろから抱きつくと、恐ろしい力でふりはらわれ、やはりいつものせりふが繰り返される。
その後、怒りと羞恥心からなかなか屋敷に足を運ぶ気になれず、彼女は週末、同居している男と山に遠出する。その日はホテルに泊まり、男がシャワーを浴びている間に、彼の携帯を開くと、元妻とのメールのやりとりがあるが、別に嫉妬は覚えない。夕食時、彼女は饒舌になる。夜、暗闇の中でセックスをしているとき、「どうして来ないの? 来てくれなきゃいけないんだ」という声が聞こえた気がする。
翌週の水曜日、彼女が屋敷をたずねると、ドアをあけたところにあの少年が、前と同じかっこうで立っている。まばたきをしない少年に、彼女はいくつか質問するがこたえはない。だが、「あなたの部屋はどこ?」とたずねると、2階の1室に案内される。少年は、バッタの死骸の入った厚紙の箱をクローゼットからとりだす。少年は「逃げちゃうから気をつけて」という。見えているものが違うようだ。彼女が帰ろうとすると、少年は、「また来てほしいな。また来てくれなきゃいけない」と言う。
彼女は仕事のあとで、幼なじみの女友だちと連絡をとって会いにいく。友は公園で、スパイダーマンの服を着た息子を遊ばせている。子どもはいらないと言っていたのに、子を持った友。ビールを飲みながら、愛人ができたと友が話す。彼女は、あの屋敷のことは話さず、友と息子のやりとりを観察し、昔、友と奴隷ごっこをして遊んだことを思い出す。
屋敷に行くと、再び少年が出てくる。好きな遊びをしようと誘うと、少年は、相手ができそうにないことを頼む遊びを提案する。彼女が先に頼むことになり、絵をかいて、お話をして、マッサージしてと頼む。少年が頼む番になると、髪を切ってと言う。
夏休みに入る前日、不動産屋の社長の高齢の犬が死んだ。勤めて6年目になる彼女に社長は独特の信頼感を持ち、一緒に埋めにいってくれと頼む。山に埋葬したあと、社長が、あの家は売れないなと言いだす。彼女は2件あった問い合わせを、こっそり無視していた。
その午後、彼女は電話をしてから実家に行き、父親に髪を切ってもらう。ばっさりと。家に戻ると、同居している男が酒を飲みながら居間で待っていて別れ話を切り出す。元妻とよりをもどす、君のせいじゃないと。彼女は、シャワーを浴びて、夕飯を食べながら話そうと提案する。君は信じられないな、髪を短くしてきれいだ、と男が言い、彼女の顔に触れる。彼女はふいに欲情がわいてきて、二人はキスをし、裸になる。
男が荷物をまとめて家を出て行き、不動産屋で夏休み前最後のミーティングがあった2日後、彼女は暗くなってからあの屋敷に戻る。あの少年は現れない。電気はつけず、不思議の国のアリスのように暗闇に身をまかせる。
目覚めると朝だった。居間にはこれまでなかった家具があり、少年と両親、兄が写った家族写真がある。庭のジャスミンの木が風に揺れているが、同じ動きを繰り返している。
少年が現れる。「髪を切ったんだね」「お母さんは?」「プールだよ」少年が手をつなぐと、手があたたかい。母親は、水にもぐりターンを繰り返している。父親は玄関で、出ていこうとすることを繰り返す。兄は居間のテーブルに座り、少年に向かって「病気だよ、ばか、知らないのか」と言い続けている。すべてがループに陥っている。
ふいに、少年がひどく老けて見える。ずっとこのままこの家で少年と歩き続けるのか。身体感覚が混乱する。庭で急に少年がいなくなる。呼ぼうとするが声が出ない。
二階に上がると、部屋に少年がいる。少年は再び庭に降りようとするが、彼女はひきとめ、クローゼットから厚紙の箱をとりだす。バッタは生きている。少年がまばたきする。少年の心に感情が通い始める。そこで彼女は言う。「聞いて」「わたしをよく見て、言わなきゃいけないことがあるの」「聞いて、あなたのせいじゃないのよ」「うん」バッタが窓から逃げ、庭のジャスミンの動きが止まる。「ほんとにわかった? あなたのせいじゃないから」
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ある日の午後、彼は、お手伝いさんと母がもめているのを見る。急用で帰りたいと言うお手伝いさんに、「この子と2人だけになってしまう」と母は抵抗するが、結局お手伝いさんは帰る。母はタバコを吸い、少年は母にマッサージをするなどして午後を過ごし、夕飯の時間になる。母はだるそうに肉をソテーするが、彼は食べたくない。肉を食べろという母と言い争っているときに電話が鳴る。その隙に彼は肉をテーブルの下に捨てる。電話を切った母は、泣いているようすでテーブルに戻り、タバコを吸い、床に落ちた肉を見つける。怒る母と決裂したまま彼は自分の部屋に戻り、母への呪いの言葉を並べながら眠りにつく。
翌朝、母は具合が悪い。「ママはどうしたの」と兄にたずねると、「病気だよ、ばか、知らないのか」とあしらわれる。2日しても母は起きてこず、彼は学校でも嫌なことがある。
家に帰って、部屋に鞄を置いたとき、母が庭のプールサイドにいるのが見えるが、話しかけようとすると、母はプールに飛びこみ、水中でターンする。
彼は、自分がことごとく拒絶されている気分になる。ループする家族以外に、一人だけ思い出す顔がある。バッタを見せて、マッサージをしてあげた気がする相手。思い出せるようで、ときどき遠ざかる面影。その人に頼めば、何もかもうまくいく気がする。
髪の短いお姉さんと彼は一緒にいる。二人のあいだに何かがあるのがわかる。彼女なら、元の家に帰らせてくれる気がする。彼女が階段を降りていく背中が見える。あとについて庭に降りる。その時「ぼくのせいじゃない」と、彼はふいに思う。「ぼくのせいじゃない」と。
そのとき声が聞こえる。母の声。最初は小さいが、はっきり聞こえる。「マヌエル」
母がプールからあがって、声をかけてくる。「こっちにこない?」「今行く」
■所感・評価
2018年に『きらめく共和国』(宇野和美訳 東京創元社 2020)でエラルデ小説賞を受賞した、スペインの小説家アンドレス・バルバの最新作。マリアナ・エンリケスが「幽霊の出てこない超自然小説。鮮やかな文章で、孤独や、我々の生活をとりまくループ、愛情のはかり知れない困難さを問いかける」という帯文を寄せている。バルバはアルゼンチン在住(国籍取得の手続き中)で、刊行後、スペインとアルゼンチンの主要紙でとりあげられた。
同じ手法で描き続ける職業作家になることへの嫌悪を常々語るバルバが、新たな挑戦として今回選んだのは「幽霊もの」だ。とはいえ、いつもながらの文章の冴えや、人間への深い洞察が見てとれる。「100ページで書けるものを150ページで書きたくない。短い紙数にまとめるには、書きたいものをよく知る必要がある」という持論を持つバルバらしく、130ページほどの中に、凝縮した物語世界がある。文学雑誌「クアデルノス・イスパノアメリカノス」2023年1月号でバルバが本作を「近年のオートフィクションの興隆で信頼を失っているフィクションへの挑戦」と位置づけ、「幽霊ものやファンタジーが整合性を持つには、高度なリアリズムが要求される。ヘンリー・ジェイムズもポーもボルヘスも、リアリズムと心理小説の名手である」と語っているのもうなずける。
主人公は、同棲する男性ともまわりともどこか希薄な関係性の中で生きている、不動産屋で働く30代なかばの、とりたてて特徴のない女性。派手な道具立てとも手軽な感動とも無縁の、一言では説明しがたい作品だが、的確で細やかな心理描写や状況描写が快く、読みだすと、少年の幽霊がどうなるのか、最後まで物語の行方を追わずにいられなくなる。
ストーリーのカギとなる「ループに陥った行動」は、パンデミックで巣ごもりを強いられた日常と、「もう一人の自分」は、SNSに拡散される虚像の自己と重なるところがあることに書き終えたあとで気づいたと、多くのインタビューでバルバは説明している。
版権は、米国、ドイツ、フランス、イタリア、ブラジルですでに売れている。
万人受けする作品ではなさそうだが、スペインの現代文学を代表する作家の注目作として、海外文学好きの日本の読者にもぜひ読んでほしい作品である。
■試訳(p.53の17行目から
その待ちうけ方に、どこかがっかりさせるものがある。さらに、ただ子どもでしかないことにもがっかりさせられる。それは彼女が覚えているとおりだが、そうではない。身長は一五十センチ足らず。肌はオリーブ色がかって、じっとしている顔には表情も、ましてや暴力性もない。同じ制服を着て、同じくストレートの髪が額に落ち、同じややぼんやりした眼差しをし、仕立てたものだが、妙にごわごわした生地の半ズボンと、同じ黒い革靴をはいている。彼女が入るのを見ても、その子は反応しないが、ドアを閉め、片手をあげ、それまでひきずってきた苛立ちと恐れが完全に消え去るのを彼女が感じたとき、反応する。
「名前はなんていうの?」と、少年が言う。
名前を告げまいという自分の決意が彼にとってどれほどいまいましいかと、その質問のばからしいほどの無邪気さを比べて、彼女はつい笑ってしまう。そして彼も笑い、何も言う必要がなくなる。
「ここに住んでいるの?」と、彼女がたずねる。
「わかんない」
「自分が住んでいるかどうか、わからないの?」
たずね返されたことに驚き、少年はまた眉をひそめる。
その最初のひと時を再現するのは難しい。いくつかの段階が交差する。学校のことや、友だちのことをたずね、その家に自分たち二人しかいないことに触れなければ簡単だっただろう。最後の借家人が置いていったいくつかの家具があるかないかの、彼女がこの世で生きてきたよりもよほど長くその子が過ごしてきたと思しき家だ。それから彼女は思考をめぐらせ、彼の唇と、右目の二重瞼に目をとめ、顔の輪郭やまばたきをしない目に注意を向ける。雌馬のような栗色の瞳。唇や瞼や首といった、それらの要素の堅固さそのものに不信感を抱く。それとも、彼女が信用ならないと感じているのは、その家、彼女とではなく少年と結束していそうに見えるその家かもしれない。
はっきりとものを考えられない。だからたぶん、何をたずねてもこたえを得られずに終わるのだろう。ここで何をしているのか、お父さんとお母さんはどこにいるのかという質問にも少年はいっこうにこたえず、ききかたが悪かったかのように、ただおうむ返しにこたえる。
「あなたの部屋はどれ?」最後に彼女がたずねる。
その質問に、少年は満足げな笑みを見せる。笑うと、ハンサムといっていいほど、端正な顔になる。彼は階段のほうに体を向け、目の端で彼女を見て、ついてくるかを確かめる。
「部屋を見せてくれるの?」
「うん」
けれども、以前のすべての恐怖を思い出すかのように、彼女はふいに抵抗を感じる。部屋に着くと、もう一人の自分だったときに何度ものぼってきたことがあるのに彼女は気づく。少年の部屋は、上階の、とても明るい小さな部屋だった。書斎と壁一枚で隔てられ、小さなバスルームがついている。
「あなた、前にわたしに会ったわよね」と、彼女がたずねる。
「前?」
この子には前はないのだと、彼女は思う。
「下の台所で」
少年はまたほほえむ。記憶はないが、知覚は存在しているようだ。少年はそのときの感情を覚えていないが、今はじめて、感情が湧いてきたようだ。
「うん」