身体の神経科学:生体はいかに脳を形作るか
レポート執筆者:吉田 恵
Megumi Yoshida
■概要(目次)
13 ようこそ
17 第1章 脳
17 神経の森
22 大オーケストラ
32 知覚することは解釈すること
38 解剖学と機能
52 心と脳
55 第2章 身体の統合
57 内受容覚
59 固有受容覚
64 身体を意識する
69 人間主義的な生物学を取り戻す
87 第3章 腸
87 消化器系
99 微生物叢(マイクロバイオータ)
105 脳から腸へ
108 腸から脳へ
111 微生物叢と心理学
117 大地
123 第4章 呼吸
123 呼吸器系
126 鼻
130 嗅覚、記憶の感覚
136 呼吸の脳制御
138 脳は呼吸する
141 呼吸と記憶
145 呼吸と感情
151 空気
159 第5章 心臓
159 その誕生と死
168 脈拍、生命の言葉
176 知覚の扉
185 私たちは物事をあるがままに見るのではなく、私たち自身のあり方によって見る
191 自己忘却
196 火
203 第6章 内的経験の核心
203 主観性
207 主観的神経フレーム
221 水
225 第7章 生命の楽器
233 文献
■あらすじ・内容
現代神経科学は、臨床、社会、個人にとってまさに革命の真っ只中にある。古代エジプト・ギリシア医学で見出されていた、身体の器官が脳に及ぼす影響は、心身二元論、脳中心主義が主流となったこの数世紀、影を潜めてきた。しかし今、その再発見が、私たちを知覚の包括的な視点へと導き、健康や幸福、アイデンティティや人間関係のあり方まで革命的に変えようとしている。
本書は、身体の諸器官がどのように脳を「彫刻する」のかを探るべく、身体を巡る旅に読者を誘う。まず、神経細胞であるニューロンと「ニューロンの森」ともいえる脳、その構造と機能を確認していく。次に、身体内部の状態を感知し、精神状態に影響を与える「内受容覚」と、姿勢や表情などの外面的な動きを感知し、知覚や感情に影響を与える「固有受容覚」を知り、伝統的な東洋医学やかつての西洋医学が、身体と脳、心の統合を提唱してきた歴史を紐解く。それから身体を下へ潜っていき、腸に辿り着く。代謝と防御の機能を持ち、分泌系、免疫系、神経系にも影響を与える腸内マイクロバイオータ(腸内に生息する微生物の集合体)の驚くべき力と、脳と腸の通信を仲介する自律神経系の働きについて学んだら、次の主役はその上にある肺と呼吸だ。呼吸は学習を促進し、注意、記憶と感情に働きかける。脳への最も直接的で迅速な経路は、意識的な呼吸のコントロールなのだ。また、鼻呼吸は健康を保つために有効であるだけでなく、記憶の感覚と呼ばれる嗅覚を刺激することにも寄与している。そして最後は、心臓の登場である。古代エジプト以来、心の座として君臨してきた心臓は、循環器系の発見により独立した機械的ポンプとして捉えられてきた。しかし、心臓の拍動は自律神経系を通して脳の制御を受けており、脈拍の変動性である心拍変動(HRV)は、幸福感や怒りなどの感情とそのコントロール、そして認知機能と密接に関連している。また、脳が心拍に強く反応するほど、視覚的刺激の知覚が促され、自分の視点から物事を見る主観性が与えられることもわかってきた。心臓は主観的な知覚を担っているのだ。アイデンティティの感覚が、ニューロンを介した内臓からの情報に根ざしている、というのが著者が支持する「主観的神経フレーム」理論である。脳は、心臓、呼吸、腸といった内部からの情報と外部からの情報を融合させ、その反応を調整する。私たちは自分の身体を意識することで、より深く自己を理解し、人生の質を上げることができるのだ。
読書という行為ひとつとっても、呼吸は記憶や学習を司る海馬のペースメーカーとなり、腸の健康は感情や気分に関連する脳領域の神経の成長に貢献し、心臓は自分だけが持つ主観的な感情に影響を与えている。身体と心は区別されるべきだが、切り離すことはできない。身体は生命を奏でる楽器なのだ。体内のあらゆる部分のダイナミクスが、私たちが世界をどのように体験して、理解するかに影響を与えている。
■所感・評価
『身体の神経科学』というお堅いタイトルに、200ページ超のボリューム。装丁もさして目を引くものではなく、一般の読者が気軽に手に取るにはハードルが高いはずだ。それなのに、3年前に上梓された本書はスペイン語圏ですでに15万部以上を売り上げ、ベストセラーとなっている。その理由は何か。
ページをめくり始めると、最初から著者の個人的な体験を交えた巧みな語りに引き込まれる。マジョルカ島の山の斜面で心身融合のため気功を実践するパートナーを眺めながら、研究界における脳中心主義を嘆き、メキシコの自然保護区で見た印象的なホタルの光のダンスをニューロンの放電にたとえる。自分が鼻呼吸しているのか口呼吸しているのかを今まで認識できていなかったことや、ドミニカで濃厚なカカオを飲み急激な下痢に襲われたことなどをユーモラスに告白し、メキシコからグアテマラへ移動するバスの中で聞いた女神イシュチェルの神話から腸の健康を説き、ラスベガスの有名なベラージオ・ホテルの噴水ショーを見て血液の循環を連想する。
著者であるナザレス・カステリャーノス博士は、専門の神経科学だけでなく、数学や物理学にも通じ、人文学を愛する研究者である。自身の研究成果を普及させるため、情報発信に力を入れており、普段からメディアに積極的に登場し、SNSでのフォロワーは50万人を超える。そんな彼女だからこそ、身体を巡る旅の同伴者として、常に読者に寄り添ってくれる。全編にわたって難解な専門用語、最新の科学的証拠や理論が展開されるものの、丁寧な説明と平易で軽快な語り口、古今東西の哲学や思想、文学を多数引用しながら読者の知的好奇心をくすぐる構成は、読み物としての魅力に満ちている。デカルト、アンナ・ハーレント、ヘルマン・ヘッセの詩にマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』はもちろんのこと、芥川龍之介の『鼻』まで登場するのには驚かされる。また、科学ものとしては極端に図版が少ない(一箇所のみ!)のも、本書を神経科学の専門書や入門書にはしたくないという著者の決意の表れではないか。どちらかといえば本書は、人文主義的な啓蒙書なのだ。マインドフルネスなど、身体と心に目を向けようとする最近の世界的潮流も、積極的に発信を続ける著者自身の人気や評判と相まって、本書の売り上げを伸ばしていると考えられる。
日本で有名な脳神経科学者といえば、茂木健一郎氏、中野信子氏や澤口俊之氏などが挙げられるが、身体の各器官と心の関係について言及するような活動や著作はない。一般向けの脳神経科学の本だと、図解付きの解説本や、講談社ブルーバックス、岩波ジュニア新書などの入門書になってしまう。脳と心についての本はいくつか出版されており、身体と心についての心理学の本もあるが、本書のような神経科学の最新の知見に基づく身体と心の啓蒙書は、新しいジャンルと言えるだろう。「あなたの心を理解する鍵は常にあなたの身体の中にある」というキャッチフレーズなら、ヨガや瞑想、東洋医学に親しむ日本人の関心を引きそうだ。
ただ、本書のあちこちで引用されている哲学者・文学者の言葉や著作が、西欧では馴染み深いものでも、日本人にはぴんとこないかもしれない。また、著者の体験談やユーモアを交えた科学的エッセイとして宣伝できるかといえば、無理がある。難解な理論や研究についてもしっかりと触れられており、レファレンスも本格的、気軽に読めるページ数でもない。しかし、知的刺激のシャワーを浴びながら著者と共に身体を旅し、気づいたら読破していた、そんな体験を日本の読者にもしてもらいたいと思うのである。
■試訳
(p.17〜p.19の下から13行目まで)
神経の森
「自然を観察するには静寂が必要です」ピエドラ・カンテアーダの森の管理者であるダイアナ・モラレス技師は警告した。「携帯電話の電源を切り、忍耐強く、考えに囚われず、驚きを表現したいという誘惑を退け、静寂の中で観察するようにしてください。大事なのは、静寂の中で観察することです」彼女はこう言って、私たちに念を押した。7月から8月、メキシコのトラスカラ州にあるホタル保護区は、午後8時半に照明が消え、森はホタルの生物発光で照らされる。その夏、私は博士課程の半ばにあって、メキシコの首都からチアパス州までを旅していた。静寂の中、ホタルが舞い踊る様子を観察していると、自分がまるで脳の中に入り込んだ微小な生物になったような気がした。ホタルの群れのリズミカルな閃光が、数週間前、神経科学の研究室で計測したものを思い出させたのだ。それは放電するニューロンで、知覚によって指揮された精緻なオーケストラを編成していた。ホタルは、腹部で生成されるルシフェラーゼという酵素の化学反応によって光を放つ、小さな昆虫だ。別名グローワーム、そのスペイン語の名前も、ラテン語で「光をもたらす者」を意味する「ルシファー」に由来している。複雑な光の様相を繰り広げながら、ホタルは暗闇を照らす灯台になって、暗闇と断続的な閃光を繰り返す。森の深い茂みに隠されたその光のダンスは、冬のスカンジナビアのオーロラを彷彿とさせる。ホタルは光のパルスを同期させ、暗闇の中で光のダンスを繰り広げて、メスに自分の存在を知らせ、ついには交尾に至る。この終わりのない光の物語こそ、ホタルの生殖の基盤であり、これがなければメスの反応は90%以上低下してしまうだろう。その光景の美しさは、一匹のホタルのリズミカルな閃光にあるわけではなく、何千匹ものホタルが作り出す光のダンスの演出にある。その美しさと力強さは、群れの中に宿るのだ。共同体は、コミュニケーションより重要なのである。観光客が静かにしている時に観察されるのは、ホタルがそれぞれ独立して発するランダムな光の集まりではなく、ホタルの一群が異なるリズムに連動しながら複雑な模様を描く光の同期である。それは鳥の群れが空中に、魚の群れが海中に描く模様に似ている。ホタル、鳥あるいは魚は群れに調和し、統制される。この場合、それらは同期していると言われる。
同期は生物学の原理のひとつであり、共有と伝達の行為である。鳥や魚と同じように、昆虫も同期の原理に従って前述のような光景を生み出す。スティーブン・ストロガッツ教授は、これを複雑な自己組織システムと定義している。微視的なスケールから人間を含む様々な種の社会にまで適用されるこの原理によれば、集団の構成員は各自が意識的な存在であり、近隣の個体の行動に影響を受けるため、同期が達成される。通常、その近隣の個体数は4から6程度である。群れの同期は協力によって達成されるのだ。一定数のホタルが同期すると、その統制された同一行動は、集団の無秩序なざわめきの中でひときわ目立つ存在となり、増幅効果を生み出す。例えば、サッカーのスタジアムでも似たような現象が観察される。少数の熱心なファンがチーム名をコールすると、その熱狂が伝染し、近くにいる観客もコールに加わる。応援する人の数が限界点に達すると、拡大はあっという間だ。数秒のうちに、スタジアム全体が熱狂的な歓声の渦に飲み込まれる。この情報伝播メカニズムは、全ての構成員の協力を必要とはしない。群舞に加わらないファンやホタルも存在するが、同期を害することはないからである。さらに言えば、このような構成員は多様性を体現しており、それがシステムを進化させる。しかし、集団行動は強烈な魅力を発し、できる限り多くの構成員を引き寄せようとするのだ。


