Corina Oproae著『La casa limón』の表紙
Corina Oproae著『La casa limón』の表紙
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レモンハウス

レポート執筆者:藤井 健太朗

Kentaro Fujii

■概要

 ルーマニアでのチャウシェスク政権末期を生きた少女の視点とその詩的な想像力を通じて、彼女自身と、彼女を取り巻く家族や友人たちの身に起こった様々な出来事が、回想される。

 「わたし」は、幼年時代を過ごした「レモン色の家」から、国営の集合住宅へと引っ越しをすることとなる。その家のダイニングの机の下に本を積み上げて、「わたし」は本の城を作り、そこに閉じ籠り、「レモン色の家」での思い出を回想するとともに、本や辞書を読み、大人たちが話していた意味のわからない単語についてノートにまとめながら、父親の精神的な病、秘密警察をめぐる大人たちの噂話、家族・親戚の死、中絶が禁止されていた当時のルーマニアでの姉エヴァの妊娠と出産など、自身の身の回りで起こる出来事を理解しようとする。やがて、「わたし」が大学に通い始める頃に、チャウシェスク政権は崩壊し、社会主義の時代は終わりを迎える。

■主な登場人物

「わたし」:物語の語り手、チャウシェスク政権末期にかけて幼年期、少女時代、思春期を過ごす。

父:「わたし」の父。本をよく読み、同じく本に愛着を持つ「わたし」との深い繋がりを持っていたが、集合住宅への引っ越しの直後から、精神的な病を患い、やがて「わたし」と母とは別居して、叔父たちの家で暮らすようになる。

母:病院で働き、「わたし」をひとりで育てる。

エヴァ:「わたし」の姉。集合住宅で「わたし」が暮らす時期には大学に進学しており、別の街に暮らしている。

ダナ:「わたし」が学校で作るほぼ初めての友人。ともに同じ大学に進学する。

■あらすじ

 本作品は、プロローグ、エピローグにあたる短めの第1部と第3部、そして、本編にあたる第2部という、3部構成になっている。

 第1部では、語り手である「わたし」の詩的な内省が展開される。「わたし」は、ダイニングの机の下に本を積み上げて、本の城を作り、そのなかに閉じこもって、周囲で起こった出来事を回想し、理解しようとする。「城の中に時間は存在しない」と「わたし」が語るように、本の城に閉じこもっている時点の「わたし」は概ね8~10歳ほどの少女だが、語り手としての「わたし」は、大人になった「わたし」(第3部で描かれる、大学進学後、社会主義体制の崩壊後の「わたし」とほぼ同一と考えることもできるだろう)が、本の城のなかにいる「わたし」を回想し、その視点を通じて当時の出来事を再構成し、語っているというような、重層的、円環的な時間構造がここで示唆される。

 第2部では、そのような重層的な語り手「わたし」によって、幼年期の終わりから思春期にさしかかるまでの「わたし」とその身の回りに起こった様々な出来事が語られる。これらの出来事は、時系列順には語られず、断片的に回想されていくが、そのうちのいくつかの出来事(蜂に刺されたこと、父親の精神的な病、学校で独裁者の肖像に悪戯でリンゴを投げつけた少年など)は繰り返し語られる。また、それぞれの出来事は、少女の詩的な想像力を通じて、色彩、香り、痛み、喪失といったモチーフによって、緩やかな統一感をもった形で再構成されている。また、時折起こった出来事を元にしたような、少女がみた夢の描写が挟まれ、それらの出来事が彼女にとって持っている象徴的な意味が仄めかされる。

 ここで語られる出来事は、「わたし」がレモン色をした家で過ごした幼年期に起こったこと、その家が取り壊されたのち、国営の集合住宅で暮らした少女時代(6~9歳ほど)に起こったこと、その後に思春期の始まりにさしかかった「わたし」の身の回りに起こった出来事、という、3つの時間軸に整理することができる。これらの出来事を時系列順に並べ直すと、次のようになる。

 レモン色をした家で、両親と姉と過ごした幼年期は、「わたし」にとって色彩と、匂いに満ちた、比較的暖かな思い出として語られる。一方で、曽祖母や、叔父、叔母といった親戚たちの死を通じて、死というものに初めて触れるのもこの時期のことである。曽祖母の葬儀は、ある種祝祭的な雰囲気をもって、「わたし」に記憶されているが、これらの死は、「わたし」がのちに経験することとなる様々な喪失の前兆として位置付けることができるだろう。ある日「わたし」が蜂に刺され、うなじが腫れ上がるという出来事を象徴的なきっかけとして、「わたし」の幼年期が終わりを迎える。蜂の毒を父親が吸い出したことで、ことなきを得るが、この事件からほどなくして、「わたし」は家族とともに、父親が「マッチ箱」と呼んで軽蔑する灰色の国営集合住宅へと引っ越すことになる。

 集合住宅へ引っ越したのち、「わたし」は父親に連れられて、レモン色の家が取り壊される様子を見に行く。そのことは、世界が崩壊するような感覚を「わたし」に与え、彼女は、集合住宅のダイニングの机の下に本を積み立てて作った城を作り上げしばしばその中に閉じこもるようになる。集合住宅での生活では、当時の社会状況が「わたし」の生活に影を落としているということが、食べ物に乏しいという描写や、周りの大人たちの会話などから示唆されている。反体制的な考えを持っていたらしい父親は、徐々に精神的な病を患うようになる。「わたし」はこの病を、父が蜂の毒を自分から吸い出したことと結びつけて考えるようになる。認知症のような症状をみせる父は、しばしば失踪を繰り返し、やがて「わたし」のもとを去り、叔父たちの家で暮らすようになる。この頃に、「わたし」は、友人の少年たちとの会話から、秘密警察(セクリターテ)というものの存在を知る。また、少年との性的な経験や、ある叔父との間に、家族同士の親愛をやや逸脱する、性愛的とも言えそうな関係が描かれる。これら父親の不在、当時の政治体制を背景とした大人たちへの不信、性的なものといった要素は、「わたし」の少女時代の終わりと、思春期の始まりに重ねられている。

 「わたし」は、夏の間は祖父母の家で過ごしている。近所の双子の女の子とままごと遊びをよくしていたが、ある日、自分はもう子供ではないと感じ、ままごと遊びはもうしないと決意する。

 「わたし」の通う学校で、ある同級生の少年が悪戯で、教室に飾られた独裁者の肖像にリンゴを投げつける。翌日から、彼は学校に姿を見せなくなり、どうやらより厳しい学校へと転校させられたらしいことを「わたし」は知る。また、「わたし」は学校で優等生に選ばれ、赤いネクタイを贈呈され、母親はそのことを喜ぶが、父親にそれを見せに行くと無関心な態度を示される。赤いネクタイを受け取った直後、記念撮影の前日に「わたし」は自転車事故を起こし、ネクタイは血で汚れてしまう。

 父親の病気のことを他の人に話してはいけないと言われていた「わたし」は、内に閉じ籠りがちで無口になるが、ダナという友人ができる。学校行事の「愛国的労働」に参加し、ジャガイモ収穫をしている最中に「わたし」は激しい腹痛に襲われる。ダナが教師を呼びに行き、病院へ行くと盲腸だと診断され、手術が行われ、破裂していた盲腸が摘出される。このエピソードで描かれる、身体的な「痛み」と、盲腸の摘出に象徴される「喪失」「不在」は、「わたし」の少女時代の終わりから思春期の始まりにかけて起こる出来事で繰り返し描かれるモチーフである。他に、この頃に起こった出来事としては、大学に通っていた姉エヴァの妊娠と出産、程なくして生まれた子供の死がある。

 第2部の終盤では、父の死と、その葬儀に間に合わず、埋葬に立ち会えなかったこと、また、祖父と祖母が立て続けに亡くなったことが語られる。

 第3部では、まず母親の死とその埋葬について語られ、その後に、時系列としてはその前にあたる、「わたし」の大学時代が描かれる。「わたし」は、ダナとともに大学へ進学し、二人ともに恋人ができる。やがてダナは妊娠し、違法の医者のもとで中絶手術を受けるが、そのことがもとで体調を崩し、入院することになる。反体制運動に関わっているらしいダナの恋人は、その後しばらく姿を消す。やがてテレビで、チャウシェスク政権の崩壊が中継され、社会主義の時代は終わりを迎える。政権崩壊の翌日に法律が改正され、中絶は合法化される。姿を消していたダナの恋人が再び帰ってくる。

■所感・評価

 コリナ・オプロアエは、ルーマニア出身で、母語ではないスペイン語およびカタルーニャ語を執筆言語とする。これまで詩、エッセイ、翻訳を手掛けてきた彼女の、初の小説作品である本作は、名門出版社であるトゥスケッツが主催するトゥスケッツ小説賞を受賞したほか、「ラバングアルディア紙」「エル」の2024年のベストブックに選出されるなど、高い評価を得ている。

 「共産主義はどこからやってきたの?」という自身の娘の質問に答えるために本作は書かれたとエピグラフで明かされているように、作者自身の自伝的な要素も含む本作は、主に一人称の現在形を用いながら、平易で感覚的かつ、詩的なイメージに富んだスペイン語で書かれている。そのため、ダイニングの机の下に作った本の城に閉じこもる少女の視点を通じて、時系列を入れ替えながら、チャウシェスク政権末期のルーマニアで、彼女の身の回りに起こった出来事が語られるという、一見すると複雑なようにも思われる本作の作品構造は、読者に読みにくさを感じさせることはなく、むしろ、少女の感覚、記憶を生き生きと、あるいは生々しく追体験するような読後感を感じさせる。また、本作では、登場人物たちの発話が、鉤括弧にくくられず、「わたし」の語りと並列に地の文に組み込まれて描かれている。この文体も、「わたし」の記憶を通じて過去を追体験するような感覚をもたらす効果を持っている。

 個人的かつ歴史的な悲劇的体験をいかにして語ることができるかという問いは、現在の世界において文学作品が取り組む喫緊の課題のひとつである。例えば、近年ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノー、韓江らはこのことに取り組み続けている作家たちだ。オプロアエによる初の小説作品である本作も、そうした系譜に位置付けうる作品であり、チャウシェスク政権末期のルーマニアを舞台としながら、同時に、現代の世界における普遍的な問題にも取り組んでいる。実際に、スペインではこの作品を読んで、フランコ政権時代を思い起こしたという読者の反応があったと作者がインタビューで語っている。

 本作で、少女の視点を通じて語られるエピソードには、痛み、喪失、死というモチーフが通底している。そのかつての少女の記憶を回想する大人になった「わたし」という重層的な語りの構造は、単に過去を誤ったものとして断罪するのでもなく、過去をノスタルジックに回想するのでもない、ある種、切実でもありかつ複雑な、一筋縄ではいかない現在と過去との関係のあり方を描き出す。「わたし」がかつて生きた世界は、確かに当時の「わたし」に感覚的・直感的な意味での痛みと喪失をもたらしたが、その世界そのものが無くなってしまったことは今の「わたし」にある種の喪失感を与えてもいる。その意味で、本作は、日本でも人気の高い映画監督、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』、『エル・スール』を思い起こさせるようなところがある。

 こうした本作を日本語に翻訳するうえでは、訳者には、一見した言語表現の単純さの裏に秘められている、複雑な記憶の重層的構造を、原文の、比較的に素朴な語彙を用いた少女の語りでありながら詩的なトーンを持った文体を損なわないように、日本語に訳すことが求められるだろう。ただし、そのために翻訳が困難であるというのではもちろんなく、むしろ、適切な訳者の翻訳を通して日本の読者にも本作の魅力が伝わりやすい作品であると言える。周りで起こっていることを全て理解しているわけではない少女が語り手となっていることで、ルーマニアの歴史にかんする事前知識があまり必要とされないということも、日本の読者にとって本作が持っている利点のひとつであるだろう。

■試訳

15ページ(第1部冒頭)

 わたしがいま何歳なのかは覚えていないけれど、はっきりしているのは、わたしは木でできた大きな机の下、無限に広がる、壁が本でできたお城に暮らしているということ。本をひとつひとつ選んで、恐る恐るなでてみる。まるでこのお城が崩れて、わたしを押し潰してしまうことはないと確かめるかのように。本の匂いをひとつひとつ嗅いでみる。わたしは夢中になる。学校でするのとおなじように。学校で大切だと思えるただ一つのことは、先生に近づいて、彼女が魅惑的なロケットの中に入れて、首から下げている苺の香を嗅ぐことだ。匂いがわたしを導く。すべてのものには匂いがある。人々、わたしの周りを飛び回るミツバチ、遠くから聞こえてくるパパの声、草木、緑色に塗られていて、そのために家の前に置かれている木のベンチに寝っ転がって眺める星々。

19ページ(第1部末尾)

 わたしは、お城のなかに、分厚い木でできた机の下で、日々わたしが読むたくさんの本に囲まれて、囚われたままになっている女の子だ。そこに忘れ去られたままになっている。この忘却のなかには、痛みも悲しみもない。誰にも同情してもらわなくて構わない。ここから出ていって、わたしの人生を生きようとも思わない。みんなはそうするように言うけれど。ただ、もうひとつの人生を生き続けられるように、誰かにわたしを助けに来てほしいだけだ。準備はできている。誰かにわたしのことを書いてもらわなくては。

147-149ページ(第2部) [注:ここで語られている叔父は事故によって亡くなったが、実は密告屋で、罪悪感に耐えかねて自殺したのだという噂がささやかれていた]

 叔父さんの埋葬に行ったことは覚えていない。その頃のことで覚えているのは、お祖母ちゃんが、押し殺して、絶え間なく泣く声。叔母さんの沈黙。棺のなかに収まっているのであろう叔父さんの2本の足。そして、埋葬の後で、お祖母ちゃんと叔母さんが村の人たちのために用意した食事を取り巻いていた悲しみ。それから、叔父さんはチクリ屋だったのとわたしが聞いた時の、ママの顔も覚えている。黙るように言われて、その言葉の意味をわたしはまだ知らないでいる。ある日、ミアおばさん[注:母親の友人]に聞いてみると、告げ口をする人のことだと教えてくれる。つまり、パパやママのような、クラスの同級生のお父さんやお母さんのような、普通の人たちで、本当の仕事が、食べ物を手に入れるために、ほかの人たちを操ったりスパイしたりするような人たちのことだという。それから、彼女はわたしに、ママの死んでしまったお兄さんについての噂話なんて信じてはいけないよと言う。(…)

 一度、叔父さんが死んでしまってからしばらく経って、お祖母ちゃんと話をする。もうわたしは小さい女の子ではないし、周りでたくさんの死を経験した。前置きもなしに、叔父さんの死は自殺だったというのは本当だと思うか、それに、彼の本当の仕事が、家族のための食べ物や、わたしにくれたピンクと白のサンダルを手に入れるために、ほかの人たちを操ったりスパイしたりすることだったというのは本当だと思うかと聞いてみる。わたしはそうは思わないよ。だって叔父さんはいつも笑っていたし、無口だったから。いつものように黒い服を着ているお祖母ちゃんは、まるでわたしが幽霊を蘇らせたかのように、わたしのことを見る。いいかい、人が一生かけて流せる涙よりもたくさんの不幸せが、しまい込まれている笑い声というものがあるんだよ。

158~9ページ(第2部)

 マテイを妊娠したときに、エヴァは結婚した。最初は、お腹の赤ちゃんを処分しようと考えた。前にもそうしたし、まだ大学が2年間残っていたから。けれど、前に2階からジャンプするように助言したのと同じ友達が、中絶手術をするやつの手にかかって血まみれになるよりも、産んだ方がよいと彼女を説得した。今回は、わたしに隠そうともしない。キッチンで友達と話しているが、扉は開いたままにしてある。ダイニングの机の下から出て、何を言っているか聞くために、廊下にとどまる。

 中絶がなにかはもう知っている。理解できない言葉たちのノートに書いてある。今回はエヴァが窓から飛び降りると、お腹が大きくなるのを止めると書きつける。必要はないけれど、意味をよく思い出すためにノートのページをさぐる。「胎児が生育可能になる以前の、妊娠の自己的、あるいは意図的な中止。」胎児という言葉を探すために、もう一度辞書を調べる。何かを辞書で調べるといつもこうなる。わたしはもう大きくなって、より沢山のことを理解するようになっているのに、あるひとつの単語は、わたしをほかの単語に導いて、ということが永遠に続く。定義を読むうちに、お腹に耐えられないくらいの痛みを感じる。わたしのお腹には絶対に胎児を持つことはないと自分に言い聞かせながら、眠りに落ちる。