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岸本佐知子 氏(翻訳家)

Interview

岸本佐知子 氏(翻訳家)

英語圏の独特な現代小説を小気味良い日本語に翻訳し、エッセイではご自身のシュールな頭の中をあばいてみせる岸本佐知子さん。翻訳文学について、また岸本さんの不思議な感性についてお話を伺いました。

翻訳家としての礎

子どもの頃は、『にんじん』と『銀の匙』と『小僧の神様』の3冊を繰り返し読んでいました。おもしろいともう一回最初から読むんです。好奇心の強い子なら、そこから他の本に広がっていくんでしょうが、私は広がらないタイプで、同じものばかり読んでいました。

それ以降もいろいろ読んではいましたが、自分にとって一番大きな読書体験となったのは中3の時に読んだ筒井康隆でした。スラップスティックなSFの短篇集だったのですが、「小説ってここまで自由でいいんだ!」とびっくりしました。

大学で英文科に入ったんですが、特に文学をやりたかったわけではなく、英語が一番マシな科目だったというのが理由です。私の人生、全部消去法なんですよ(笑)。
でも、大学はあんまり楽しくなかった。中高の女子校時代が楽しすぎたんですね。すごくゆるい学校で、流通している校則が3つくらいしかない。校章のバッヂをつける

と、上履きに履き替えること、そして学校を抜け出して買い食いをしないこと(笑)。早弁は当たり前で、匍匐前進でお茶を取りにいったり、本当にひどかったけれど、めちゃくちゃ楽しかったんですよ。毎日笑い転げて腹筋が痛かった。親は女の子ばっかりでおしとやかになるだろうと思ったんでしょうけど、逆で、男子の目がないっていうのは本当に恐ろしい。最近スクールカーストということがしきりに言われますけど、スクールカーストって男子の目があることによって、女子の中にヒエラルキーができたりするんですよね。でも女子校はそんなのないから、もう全員が野獣のよう(笑)。

そんな女子校生活でしたから、大学に行ったら男子がいて! むさくるしいやら、なんか変に差別されるやら・・・。大学時代って、全部の記憶を合わせても3日分ぐらいしかない(笑)。生きていること自体に何の目標も定まらなくて、文学云々以前の、もう全然お話にならないありさまでしたね。

でも今にして思えば、じつは別宮貞徳先生をはじめ、偉大な先生がたに習っていました。卒論はリチャード・ブローディガンというアメリカの作家について書いたんですけども、原作の力もさることながら、訳者の藤本和子さんの訳に圧倒されました。生まれてはじめて「翻訳ってすごい!」って思ったんです。

会社員時代

卒業後は洋酒会社に就職し、宣伝部に所属しました。広告を出稿し、テレビコマーシャルを作るような部署で、ちょうどバブルの時期だったこともあって派手でしたね。毎晩毎晩2時、3時まで飲んで、ワッショイ、ワッショイみたいなところだった(笑)。それ自体はすごく楽しかったんだけど、仕事では全然役に立たなくて辛かったです。いやもうほんとに使い物にならなかった。社会人になったら守らなきゃいけないルールっていうのはある程度、人のDNAの中に入っているんじゃないかと思うんですが、それが私には欠落していた。「なんで時間通りに会社に行かなきゃいけないの?」ってことから根本的に理解できなかったですね。思えば生まれて最初に「社会」を体験した幼稚園のとき、私と同い年の園児たちが、すでに周りの空気を読んでいることにショックを受けたものでした。

その幼稚園以来、まるで宇宙人が人間のふりをして、地球で正体がばれないように暮らしている気分で生きています。会社員時代は、失敗すれば会社の損失になるし、周囲にも迷惑をかけるので、「生まれてすみません」状態でした。今の仕事になってからは、多少社会不適合でも「まあ、しょうがないよね」と笑ってもらえるようになりましたけど。そういう意味でも居心地は格段によくなりました。それでもまだ、人間付き合いでいろいろやらかしてしまうことはあります。

翻訳の道へ

職場では、文字通りの給料泥棒でいることがすごく辛くなってきて、心が折れそうでした。そこで会社以外に居場所を作ろうと思って、たまたま翻訳学校に通い始めたんですね。
いろんなコースがあって、実務的なものから児童文学や、英語以外の語学もありましたが、やっぱりやるなら小説がいいと思いました。でも、入ったクラスの先生がとても厳しい先生で、最初の頃はあまりに怖くて泣きながら帰ったんですよ。とにかくすごく怒られる。課題文を与えられて、それを提出すると先生が一点一点講評してくれるんですけども、私のなんて箸にも棒にもかからなくって。自分では結構いけてるつもりで提出したら、「30点!」って言われて、「えー、なんで!」って。

辛かったですね、もう魂の抜け殻みたいになって。それで大人になって初めて本気で勉強しました。講義をテープにとって、クラスでうまい人の訳文を書き写して、ちゃんと復習するようにしました。だって、会社で居場所がなくて、唯一の居場所を求めて行った場所でもボロクソに言われて、もう後がないじゃないですか。そんなことを半年くらいやっているうちに、少しずつ褒められるようになりました。他の生徒の訳を見ていて気づいたんですけど、翻訳って、ずっとやっているとある日突然うまくなるんですよ。ジリジリとうまくなるんじゃなくて、あるときガクンと一段階うまくなる。不思議なんですけど。「あれ、この人先週と全然違う!」っていうのを何度も見ました。だから続けるって大事なことなんですね。

この仕事を始めてから、自分の訳に自信をなくしたとき、すごくうまい方の翻訳と原文を並べて見比べて「すごい!」と思って書き写して勉強したこともあります。それから日本語らしさを学ぶために、例えば三島由紀夫の作品とか、小川洋子でも村上春樹でもいいんですが、英訳されたものを、また日本語に訳し直してみる、ということもやりました。そうすると全然違うんですよ。自分のは日本語になってないんですね。かといって、あまり日本語らしくしすぎてもかえって胡散臭く思われたりもする。原文にあるかもしれない「違和感」は残すように意識しなきゃいけないんだって。難しいんですけど。

初仕事

最初の翻訳の仕事は、知り合いのツテを通していただいたもので、ある映画の原作だったんですが、映画の公開に間に合わせるのに一カ月くらいで仕上げなくてはなりませんでした。難しい内容でしたが、「やります!」って手を挙げました。最初にいただく仕事って選べないんですよ。まあ考えれば当たり前で、何の実績もないペーペーのところには、何かしら条件が厳しい仕事しか来ないし、ジャンルも選べない。私はその後すぐに、新しく英米文学のシリーズを立ち上げるのに訳者をある程度揃える必要が出た出版社からお声がかかったので、それで何となく方向性が決まりましたが、もしも最初に、例えば推理小説の仕事が来ていたら、今もずっと推理小説をやっていたかもしれません。
ただ、私は推理小説には向いていないかもしれません。なぜかと言うと、謎解きに興味がないから。たいていの推理小説って、まず謎が提示されてそれがだんだん解かれるわけですよね。でも私にはその最初の謎の段階が一番おもしろい。なんなら謎のまま終わって欲しいくらい。ひどい時には謎解きがめんどくさくて、飛ばして最後のところを読んじゃう。もう読み手として全然失格です。何にせよ、私は「わからない」ことが好きみたいです。だからオカルトなんか大好きなんですよ。UFOとか心霊とかネッシーとか、なんでも信じる。ついたあだ名は「オカルト馬鹿一代」です。

訳す作品の選び方

最初のころは、最新の作家とか作品の情報源が全然ないんで、もう手当たり次第に本を買ってきては、ちょっと読んではやめ、ちょっと読んではやめていました。アマゾンができてからはますます手当たり次第に買っています。それもかなりの割合で”ジャケ買い”、要するに表紙のデザインで買うんですが、これでピンときたものは大体内容も当たりますね。アマゾンで「これを買ってる人はこれも買ってます」みたいなのが出るじゃないですか。それでタイトルと表紙と概要を見て、ツボな感じの本だと思ったら注文しています。そうやっているうちに完全にアマゾンに見抜かれて、「こんなのどうだ」ってオススメされて読んだらすごくおもしろくて、本当に翻訳してしまったこともあります(笑)。

文章の「風合い」「手触り」

文章のリズム感はある程度、生まれつき備わっているもので、10人いれば10通りのリズムがあると思う。『銀の匙』を読んでいた頃から、リズムが大事だということはなんとなくわかっていたような気がします。『にんじん』の岸田國士さんの訳も今読んでも素晴らしくて、古風ななかに、ところどころべらんめえな感じが混ざるのがすごくかっこいい。そういうのを含めて、「風合い」というのでしょうか。私はなんでも「手触り」が大事で、文章も、内容はくだらなくても手触りがよければいいと思っているところがあります。谷崎潤一郎の、例えば『痴人の愛』とか『卍』って、三面記事にあるような下世話なことを書いているのに、なぜこんなに美しいんだろう、って思うんです。谷崎の中で一番好きな作品は『蓼喰う虫』ですが、あれって内容のあまりない、起伏の少ない話なのに、文章に酔っぱらいますね。

現代の日本人作家の中では、町田康さんの文章は特に音楽的だなと思います。あとは多和田葉子さん。多和田さんも明らかに言葉を楽器として使っているようなところがあります。彼女の「きつね月」という作品が特に好きなんですけど、例えば一つの言葉の音をちょっとずつずらしながら、ダジャレのようにして、どんどんどんどん転がっていく話で、言葉そのものと戯れているような感じ。音楽を聴いたあとのような読後感なんです。

翻訳文学の壁

依然として若い人たちは、いや、若い人ばかりじゃないのかもしれませんが、「翻訳文学は読みにくい」って言うんですよ。壁はまだあると思うんですが、ツイッターなんかをみていると、一時期よりはちょっとその壁が低くなったかな、と思えたりもするんです。柴田元幸さんのような”頼れる兄貴”風の翻訳家がいると、みんな読むでしょ? いわれのない思い込みで翻訳ものを敬遠しているだけで、読めば絶対におもしろいし、そんなにハズレはないはずなんですよ。日本文学ならピンからキリまであるけど、翻訳ものはある程度、出版社や翻訳者がふるいにかけているので、ハズレはそもそも訳されない。例えば柴田さんの訳したものを一つ読んでみて、それがおもしろければ、思い込みが消えてオースターを読破して、次は何を読もうかなってことになると思うんですよね。私はエッセイを書くのがそんなに得意じゃないんですが、それでもやめない理由の一つは、私のエッセイを読んでくれた人が、「こいつが訳すものだったらそんなに難しくないんじゃないか」って思って、私の訳したものを手にとるきっかけになってほしい、ひいては他の翻訳書にも手を伸ばしてほしいからなんです。「岸本さんのエッセイを読んで、おもしろかったから翻訳ものも読んでみました」っていうコメントをみると、続けていてよかったと思います。

コルタサルのデタラメな世界観が好き

家の本棚を見てみたら、スペイン語圏の作家の中ではアルゼンチン人のフリオ・コルタサルの作品が多いことに気づきました。コルタサルの世界では、現実と非現実がそんなに対極じゃなくて地続きになっているんですが、そこがすごく私の好みに合っているんです。そして、すごくバカバカしい思いつきなのに、それを最後まで書ききるっていうのがとてもおもしろくって(笑)。例えば男の人がセーターを着ようとして、セーターが頭に引っかかってパニックになって、そのまま窓から落ちて死んじゃう、みたいな(笑)。「誰も悪くない」という短編です。あるいはカメラで写真を撮ったら、カメラの中だけでその現実が進んでいく、とかね。そういうことって頭の中で考えはしても、なかなか書かないと思うんですよね。でもこの人は大まじめに書ききる。説得力のある一つの物語世界を創りあげてしまうんです。

反対に、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』とかホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』、バルガス・リョサの『緑の家』といっためくるめく長編は、死ぬほどおもしろくって、何度も途中まで読むんですけど・・・変な話なんですが、私はなんでもおもしろすぎると、サーモスタットが働いて、途中でやめちゃうんですよ。おもしろすぎて頭がショートしそうになって、バチンとスイッチが切れてしまう。これ私だけでしょうか? 今挙げた3冊は、いつか年をとって、たいていのことでは驚かない年頃になったら最後まで読めるんだろうなと、楽しみにしているんですけど。

その点、短編が多いコルタサルはすごくおもしろいけど読みきれる。最初に読んだのが確か「南部高速道路」で、高速道路がすごく渋滞する。で、何日も動かないうちに、そこで人々が車を停めたまま生活を始めちゃって、国家みたいなのができて、人々が恋愛し始めて…という話。荒唐無稽なストーリーなんだけども、初めて読んだ時には「これは私が求めていた世界だ!」と震えた。それはやっぱり私が“筒井脳”だからなのかも。子どもの頃から、たいていの本が現実をなぞるようにきちんとしたルールにのっとって書かれていることにモヤモヤした不満を持っていたんです。現実が嫌いだったんでしょうね。文字の上でのことなんだから何やったっていいはずなのに、たいていの本には空気を読んだかのようなきちんとしたことしか書かれてないって。そこに、中3で筒井作品と出会い、「これだ!」って思ったんですね。デタラメやっていい、お約束事を壊していい、っていう、その時の解放感がいまだにあって、だからコルタサルのような作家に惹かれるんだと思います。

岸本佐知子(きしもと・さちこ)

1960年生まれ。翻訳家。主な訳書にN・ベイカー『中二階』、M・ジュライ『いちばんここに似合う人』、L・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』、S.タン『遠い町から来た話』など多数。編訳書に『変愛小説集』『居心地の悪い部屋』。著者に『気になる部分』『ねにもつタイプ』『なんらかの事情』がある。