Interview
吉田彩子先生(清泉女子大学 スペイン語スペイン文学科教授)
スペインの古典から現代までの文学を幅広く翻訳・研究・指導してらっしゃる清泉女子大学の吉田彩子先生に、スペイン文学の楽しみ方についてお話を伺いました。
生涯の研究テーマ、詩人ルイス・デ・ゴンゴラ
私が研究しているルイス・デ・ゴンゴラ(1561-1627年)は、「黄金世紀」と呼ばれた16・17世紀のスペインの詩人で、セルバンテスより14歳若いコルドバの聖職者でした。文学界ではピカレスク小説が流行し、ゴンゴラだけでなく、セルバンテス、劇作家のローペ・デ・ベガやカルデロン、美術ではベラスケス、エル・グレコなどが活躍した輝かしい時代です。
最近の授業ではゴンゴラの短い作品を取り上げています。レトリリャスletrillasという民謡形式の作品には言葉遊びやジョークだけで成り立っている作品が多く、読み解くのは一苦労なのですが、学生にはそのプロセスが新鮮らしく、けっこう楽しんでくれています。教える側が本当におもしろいと思う作品を紹介すれば、多少ハードルが高くても学生はついてきます。学生が好んで読むのはやはりライトノベルが多いようですが、エンターテインメント系でも、アルトゥーロ・ペレス・レベルテは上手に歴史的な背景を描いているので、それを読んだ人が黄金世紀になじんでくれればと思います。
ゴンゴラに話を戻しますと、レトリリャスやロマンセのような小品に比べ、1613年に第1部が公表された『孤独』という長編詩は、形式も内容も独創的な、比類のない大作です。ウェルギリウスやホメロスを彷彿させるスケールで、隠喩や古典の知識がないとわからない言い回し、複雑な語順変換など、詩人が生涯をかけて習得した技法のかぎりをつくしています。散文訳や註釈をつけないと理解できません。発表した当初から「わけがわからない」「スペイン語ではない」と批判の的になり、これに対してゴンゴラの支持者たちが競って註釈をつけましたので、未完の第2部も含めて計2000行ほどの作品に、膨大な量の註釈が存在します。これら17世紀の註釈者たちが残した文献に、ダマソ・アロンソをはじめとする現代の研究者たちの成果を加えて、シンタックスを理解し、言葉や比喩が何を意味しているかを粘り強く解いていけば、かなり正確にわかります。「ゴンゴラは曖昧でも難解でもない。意味はとても明快である」と、詩人のダマソ・アロンソが言ったとおりです。つまりゴンゴラの解釈は、現代詩を読むときのように、読者の感性にまかされているのではありません。ガルシア・ロルカの言葉を借りれば、「ゴンゴラは読むのではなく、勉強しないといけないA Góngora no hay que leerlo, sino estudiarlo.」ということになります。
アーノルド・ハウザーという芸術社会学者は次のように言っています。「100年前までの作品は、特に準備をしなくても読めるが、100年以上前のものは、読み方から勉強しないとわからない」と。絵画もそうだと思います。イコノグラフィーなどの約束事を知らないと、本当のところはわからないし、逆に、知っていると何倍も楽しめます。ルネッサンスの芸術家たちはギリシア・ローマに学びました。そして後世はルネッサンスを範とするわけです。18世紀までは過去に学び、学識を継承した上で、絵を描き、詩を書いたのです。いうまでもなく、教養はあらゆる芸術の前提でした。
19世紀にロマン主義という運動が起こりますが、これは若者たちの大反乱だったのです。若者たちが「勉強なんかしなくていいんだ」「詩神からインスピレーションを受けた天才が芸術を作るんだ」って。それはとても斬新な考えであって、正しい面もないことはないのですが、現在の私たちはこのロマン主義的な考えを疑うことなく、その影響下に生きています。しかしT.S.エリオットが個人の才能を伝統と切り離す事はできないと言ったように、無から有は生まれないのです。
スペイン文学に興味をもったきっかけ
私は『源氏物語』など日本の古典文学の勉強をしたかったのですが、大学進学の直前になって、ヨーロッパ文化に直接ふれたいと強く思いました。海外旅行が自由になった頃です。永井荷風が好きだったのでフランスに行きたかったのですが、清泉女子大学には卒業後スペインに留学できる制度があることを知り、スペイン文学を勉強することにしました。大学ではスペイン人の修道女たちから活きたスペイン語を学ぶことができました。これは大きな財産となりました。あるとき、マドリード大学への留学から帰ったばかりの先輩に、原書のガルシア・ロペスの『スペイン文学史』を借りて読みました。フランシスコ・デ・ケベード(1580年~1645年)についての解説が非常におもしろくて、バロック時代の文学に興味を持つようになったのです。
大学を卒業した後、バロック文学を研究のテーマと決め、2年間グラナダ大学に留学しました。当時のグラナダ大学にはバロック文学の伝説的な研究者エミリオ・オロスコ教授がいて、代表的な著作を発表していました。中世文学と黄金世紀文学の講義を受けたのですが、どちらも毎回とてもエキサイティングでした。初期の抒情詩ハルチャ(アラビア語の長詩モアシャッハの末尾に付された短詩)の話はとくに印象的でした。幸運にも個人指導も受ける事ができました。この頃からスペイン文学研究をライフワークにしたいと本気で考えるようになりました。留学の後半は、オロスコ先生に指導していただいて「バロック文学における花のテーマ」と題する論文を書きました。私の最初の論文です。
フランコ独裁政権下からモビーダへ
グラナダに留学した69年から71年は、フランコ総統がまだ健在でしたが、独裁政権は末期に近かったので、パリの68年5月の影響で学生の意識も高揚し、共産党の地下活動も行なわれていたようです。マドリードでは学生運動が盛んで、大学が長期間閉鎖されたこともあったため、私はキャンパスが比較的おだやかだったグラナダに送られたのです。しかし留学2年目になると、今度はグラナダが学生運動の拠点のようなことになり、数ヶ月間、文学部が閉鎖されました。オロスコ先生が学生運動に共感を示す一方で、必要な文献をすべて法学部の図書館に移管してくれたおかげで、私は無事に論文を書き上げることができました。
その後、87年から88年にかけて半年マドリードに滞在しました。フランコ総統の死後、民主主義への移行期に、若者たちが自由を謳歌した「モビーダ」と呼ばれるお祭り騒ぎの時代(1980年前後)がありましたが、当時のマドリードはまだその余韻にひたっているかのように見えました。夜を徹してディスコやバルで遊ぶ若者たちの姿は、フランキスモの時代には想像もできないものでした。その後の長期滞在は94年秋から95年夏にかけてです。おなじくマドリードで暮らしました。フェリペ・ゴンサレス政権末期の汚職が連日報道され、国民党が台頭していました。EUの一員としての恩恵を被り、都心の風景にははっきりと豊かさが感じられました。今思えばスペイン・バブルの前夜でもありました。
二度目のマドリード生活では、スペインやフランスの研究者たちはもちろん、当地の現代作家とも交流することができました。例えば、映画監督のアルモドバルとともにモビーダを代表するルイス・アントニオ・デ・ビリェナとは、その自伝的小説『チコス―時は過ぎゆく』(筑摩書房、1992年)を翻訳したのが縁で交遊が始まりました。『El burdel de Lord Byron(バイロン卿の娼館)』を発表して評判になり、95年のアソリン賞を受賞したこともあって彼には華やかなオーラがありました。三島由紀夫みたいに、自分の作品の主人公になりきっていましたね。夏のテラスではゆったりと扇子を使い、バイロンそっくりにふるまっていました。当時私はアルカラ門の近くに暮らしていたのですが、彼はよく手料理を食べに家に来ました。決まって執筆を終えた夜10時過ぎです。深夜のパラス・ホテルのビュッフェで、テレビ出演を終えたばかりのタキシード姿の彼と食事をしたこともあります。歌が上手で、マタハリが踊ったと伝えられるホールが見わたせるテーブルで、食後のグラッパを飲みながら『愛と死のロマンセ』を歌ってくれました。日本人の案内で日本食を食べたいと言うので、何度か一緒にグランビアに近い和食の店に行ったこともあります。食後は彼がチュエカ広場に案内してくれました。性的マイノリティーが集まる、先端的なカフェが軒を連ねていて、当時は昼間でも危険な場所でした。ある晩、彼がジン・トニックのグラスを傾けながら「モビーダはもう終わったね」とつぶやいたのを覚えています。
今は世界の作家がお互いに刺激を与えあう時代
ビリェナの『チコス』は村上龍の作品と似ていると言われますが、こちらもそれを意識して訳したつもりです。後になって知ったのですが『限りなく透明に近いブルー』はエスパサからスペイン語版が出ていて、ビリェナもそれを早い時期に読んでいました。影響を受けたとは口が裂けても認めないでしょうが、何らかのヒントを得た事は間違いありません。スペインの若い作家は日本の文学をよく読んでいる模様です。日本文学も海外の作家に影響を与えているし、日本のベストセラー作家の作品は海外でもほぼリアルタイムで翻訳紹介される時代になってきています。欧米の作品に何かを学ぶとか、こちらが一方的に衝撃を受けるのではなくて、今は世界の作家がお互いに刺激をあたえあう時代が来ているのです。受け身の時代は終わっているのです。私たちが生きている時代や社会を諸外国の作家たちと共有し、同じ問題に取り組んで、双方向的に答えを出して行く、まったく新しい文学の時代が始まっているのだと思います。
フランコ総統の死は75年、村上龍のセンセーショナルな文壇デビューは76年です。日本でもその頃まではファシズムのメンタリティーが国を動かしていたのです。村上春樹の『羊をめぐる冒険』も戦前から戦後にいたるファシズムの流れを扱っています。スペインと日本は、国連に入ったのもほぼ同時期ですし、良く似た近代化のプロセスを辿って来たと言えます。私は2001年ニューヨーク市立大学(CUNY)で開かれた国際スペイン学会(AIH)で、1950年前後に生まれたスペインと日本の4人の作家、すなわち二人の村上とビリェナ、フリオ・リャマサーレスの代表的な作品をファシズムとの関わりを軸に論じましたが、それがスペイン語圏の国際学会に二人の村上が紹介された最初だったかもしれませんね。
70年代後半に出発した作家たちの特徴のひとつは、既成の価値観や社会秩序に対する強い嫌悪・全面否定、さらにいえば破壊衝動だったように思います。ビリェナは『チコス』の中で自己の青春のパラダイムを「迷走する美しい狂気の集積」と総括し、「すべては崩壊で終わるのだろう」と結論づけていますが、そこから生まれた混沌は数学者ポアンカレの言う「新しい秩序」であり、豊かな可能性を秘めた肥沃な土地なのです。やがて来る世代の文学者たちに求められるのは、この混沌のなかに、新たな倫理を構築することでしょう。現代の人々は、日本に限らず混沌に疲れ、混沌を恐れているように見えます。疲弊した現代人には、欲望だけが唯一の価値となりつつあります。混沌を恐れてはなりません。希望は混沌と危険のなかにあります。安易な秩序を求めるとき、私たちは再びファシズムの暗い海に飲み込まれてしまうでしょう。
吉田彩子(よしだ・さいこ)
1946年北九州市に生まれる。清泉女子大学スペイン語スペイン文学科卒業後、スペイン・グラナダ大学に留学。エミリオ・オロスコに師事し、スペイン・バロック文学研究の手ほどきを受ける。上智大学大学院博士課程満期退学。1976年より清泉女子大学で教鞭をとる。2001年よりスペイン王立コルドバ・アカデミー(RAC)会員、国際スペイン学会(AIH)理事(2010−2013年)。著書に『ルイス・デ・ゴンゴラ「孤独」−翻訳・評釈−』(筑摩書房)、『バロックの愉しみ』(共著・筑摩書房)、翻訳にフアン・バレーラ『ペピータ・ヒメネス』(主婦の友社)エミリオ・オロスコ『ベラスケスとバロックの精神』(筑摩書房)バリェ−インクラン『冬のソナタ』(西和書林)ルイス・アントニオ・デ・ビリェナ『チコス』(筑摩書房)など。