■概要
いつだって酔っぱらっているインディオ(メキシコ先住民)のフアン、またの名をサンドゥンガの波乱万丈な人生をたどりながら、本当に起きたこと、起きたかもしれないこと、想念と幻想、夢とうつつが、さまざまな視点のもとで時空を超えて交錯する、変幻自在かつユニークな文芸作品。
■登場人物
フアン・ビロリア(サンドゥンガ)オアハカ州テワンテペク、モンテロボス村出身のイン ディオ。料理人。酒浸り。
マリーア・デ・ロス・アンヘレス フアンの祖母。
ギジェルモ・ビロリア フアンの父。モンテロボス村の名家の生まれ。
アガピータ フアンの母。早くに亡くなる。
フェデリコ フアンの弟。
アグリピナ フアンの幼なじみ。やがて妻になる。
サビーナ フアンの娘。
メモ フアンの息子。
ホセファ(チェパ) レヒス・ホテルの厨房で下働きをしている娘。
■あらすじ
1947年、町にハリケーンが近づいていた。サンドゥンガ(故郷テワンテペクの民謡)ことフアン・ビロリアは、いつものように酔っぱらって帰宅したが、ドアを開けたとたんに大水に呑みこまれた。だが本当に? これは夢かうつつか?
オアハカ州テワンテペク、モンテロボス村の名家であるビロリア家の長男ギジェルモは、1914年のアメリカ軍のメキシコ侵攻の際にも勇敢に戦ったおじに倣い、海軍学校に入学するが、なじめずに退学し、家の商売に従事することになる。出張の際に見初めたアガピータという娘をめとったが、アガピータはフアンとフェデリコという兄弟を産んだのち事故で早世する。兄弟の祖母、マリーア・デ・ロス・アンヘレスはメキシコ革命ですべてをなくしたが、生き延びた強い女だ。家ではすべての采配を振るい、財産も手放したがらない。
フアンの幼なじみのアグリピナは、父を突然亡くし、幼い弟妹を養うために姉とともに大都市ベラクルスに行き、下女として働き始める。祖母の指示でやはりベラクルスに出てきて料理人の修業をしていたフアンは、美しい彼女に交際を申し込み、しまいにはプロポーズする。家を助けなければならないアグリピナは迷ったものの、名家の息子であるフアンなら、と思い、申し出を受ける。ところが怖気づいたフアンは、飲んだくれて、結婚式に姿を現さなかった。そう、アグリピナはもっと早く不幸に気づいてしかるべきだったのかもしれない。
2人は未来を信じてメキシコ・シティに向かう。メキシコ・オリンピックはまだ先の話だったが、ミゲル・アレマン大統領は産業化を進め、町は、シティに行けばよい暮らしができると信じた内陸の人々であふれていた。エル・サントと呼ばれる、ルチャリブレ(メキシコで人気のあるプロレス)最大のヒーローが現れ、誰もが熱狂した。イングランド・ワールドカップが生で中継され、世界は小さくなりつつあった。極めつきは1969年の月面着陸中継だ。アグリピナは神の偉大さに胸を打たれたが、フアンはけっして目にしているものを信じようとしなかった。人々の希望が世界の希望に重なり、しかしフアンはそこから取り残された。
レヒス・ホテルの見習いコックだったフアンは、厨房で下働きをしていたホセファ(チェパ)と恋仲になる。妻の浮気を疑ったことがきっかけだったのだが、それはまったくの濡れ衣だった。2人が写っている写真を偶然目にしたアグリピナは、生まれたばかりの息子メモに乳をやりながら、怒りに震える。
そんなある日、メモが病気になり、アグリピナは医者に診せるお金がほしいとフアンに頼むが、フアンはそれを仕事に急ぐためのタクシー代にしてしまう。折しもチェパとフアンのスキャンダルが明るみに出て、フアンはホテルを解雇された。彼は荷物をまとめると、チェパと事前に取り決めをした列車の駅に向かう。2人で駆け落ちをするつもりだったのだ。ところがチェパは待てど暮らせど来なかった。待ち合わせの駅をおたがいに間違えていたのだ。メモは病気が悪化して、そのまま命を落とす。
すごすごと家に戻ったフアンは元の鞘に収まった。メモの前に生まれていた娘サビーナ、その後生まれたもう1人のメモと合わせると、2人のあいだには3人の子供ができた。アグリピナは酔いどれ亭主を悪しざまに罵倒し、フアンはフアンでギターを抱えて酒場に消える毎日だった。そして、コックとして船に乗り7つの海を渡っただの、20以上のインディオの言葉を操る魔術師としてサーカスの舞台に立っただの、メキシコに来たジョン・レノンと一緒に歌をうたっただの、ほら話を並べた。
しかし1985年、何もかもがひっくり返った。9月、シティを大地震が襲ったのだ。街は崩壊し、阿鼻叫喚の巷と化した。そのときちょうど、昔勤めていたホテルにいたフアンは命からがら建物を逃げだしたが、地面に呑みこまれるかと思った。しかし、地下鉄内にいたアグリピナは本当に地面に呑みこまれてしまったのだった。
死んだ妻に酒をやめろと言われたからと、フアンは1か月酒を飲まなかった。妻は誰が見ても善人であり、それに比べて自分はひどいことばかりしてきた。だがそこに悪意はなく、成り行きでそうなっただけだ。渇きがひどく、彼はゾンビのように街を歩いた。
やはり酒はやめられなかった。病院に収容され、人生の重荷に苛まれるフアン。母を知らず、子を死なせ、妻を裏切り、そして亡くした。明け方になると目に見えないものが現れ、眠れない老人を脅かす。だが、そういう目に見えない化け物を、メキシコのスーパーヒーロー〝カリマン〟のように第3の目で見ることが大事なのだ。
86歳になったサンドゥンガことフアンは、酒を飲みながら日向ぼっこをし、しらふでは味わえない安らぎを感じている。そばには愛犬のコケタが寝そべっている。だが頭の中ではいつも、アグリピナに言われた言葉がこだましている。夢うつつのなか、今までの人生、あったかもしれない人生について考える。始まりも終わりもない映画のように、さまざまな人生が何度もくり返される。俺は弟にピストルで撃たれて死んでいたかもしれないし、酒場で喉を掻っ切られていたかもしれないし、息子に殺されていたかもしれないし、水に吞まれて溺死していたかもしれない。何もかもがただただ巡り、俺は百の目を持つ怪物アルゴスとなって、眠れないまま延々とそれを眺めつづける。
■感想
〈最高の一日の始め方は、未明から空きっ腹に酒を流し込むことだ〉という一文で始まる、まさに〝酔いどれ〟小説と言っていい。しかしただ〝酒〟に酔っているだけでなく、小説全体がぐらぐらと揺れ動き、不安定で、つかみどころがない。そこがこの小説の魅力でもあり、難解さでもある。
物語の中心は、メキシコのオアハカ州、モンテロボ(インディオの言葉では「コヨーテペク」)という村出身のサンドゥンガことフアン・ビロリアという1人のインディオの男の一生であり、その祖母から父、子、孫の代までの大勢の人々が登場する、南米らしい大家族小説だ。そこに、祖母が経験したメキシコ革命に始まり、おそらくは1990年代ぐらいまでのメキシコの歴史文化が織り込まれ、物語に厚みを与えている。
問題は小説の構成である。全体が12の章から成り、それぞれがさらに複数の節に分かれているのだが、それこそ節ごとで、場合によっては同じ節の中でさえ、視点も、時代も、話者も、場所も、てんでばらばらで、しかも現実なのか、幻想なのか、妄想なのか、ほら話なのかも判然とせず、もちろん何の説明もないので、自分がいつの、誰の、どこの話を読んでいるのかわからないまま、読み進めることになる(しばらくすると、多少ヒントは現れる)。正直ストレスフルだが、そこを面白いと感じる読者もいるだろう。ある意味実験的とも言えるが、読んでいて、実験小説という印象は受けず、何か成り行きでそういう構成になっているように感じる。そして、物語の最終章で、死期を間近に控えた主人公が日向ぼっこをしながら酒を飲み、みずからの人生、あったかもしれない人生、複数の時間軸のパラレルワールドについて、一貫性のない無限ループの映画のように回想する場面に至って、ようやく、これは酔っぱらいのサンドゥンガが終わりから振り返った、とりとめのない多次元思弁小説だったのだ、と謎の答えがわかるのだ。
主人公のサンドゥンガはかわいげのある最低男として描かれる。妻のアグリピナは彼に振りまわされつづけ、駆け落ちに失敗してすごすごと夫が戻ってきてからは、彼を叱り飛ばし、悪しざまにののしる毎日となる。そして大地震であっけなく命を落とす、傍から見れば不幸な人生だ。だが、彼女を亡くしてからも、ずっとその声を頭の中で聞き続けるサンドゥンガは、やはり彼女を心から愛していたのだろう。ちなみにサンドゥンガは「死者の日」を歌ったメキシコ民謡のことで、彼フアンにそういうあだ名がついたのは、ずっと死者たちのことを思って過ごしていることを暗示しているのかもしれない。
たとえば主人公がジョン・レノンと酒を酌み交わし、合奏するなど、夢とも現実ともつかない、ほら話のような逸話の数々が愉快だ。インディオ特有の言いまわし(注が豊富)や料理も魅力的。
著者のマテオ・ミゲルは1960年メキシコ・シティ生まれ。メキシコ国立自治大学では生物学を専攻。若いころから出版の仕事に従事し、さまざまな新聞や文芸誌で短編小説を発表していた。1997年に短編集『A las puertas de su casa(あなたの家の戸口で)』でエフライン・ウエルタ国民短編小説賞を受賞。2016年に初めての長編小説『Negro corazón(黒い心)』を上梓。本作品は長編2作目である。
万人受けはしないかもしれないが、実験的な純文学を好む層にはアピールする作品だろう。
■試訳(p.14-15)
サンドゥンガは起きあがり、ベッドから足を下ろしたが、そこに床はなく、足先が触れたのは冷たい水だった。
「くそったれ!」
どういうことかわからず、しばらくベッドに腰かけたまま、室内に溜まっている水を眺めていた。ありえないと思いながら頭を掻き、身をかがめて人さし指の先を水に浸したあと、口に運んで舐めてみる。
「塩水だ」
ベッド脇にあるナイトテーブルを手探りし、その中にあるラジオを見つける。スイッチを回したが、何の音も聞こえない。また頭を掻き、池と化した室内をとりあえず探検してみようと思った。仕事に行かなきゃならねえ。水があろうとなかろうと、行くしかない。だからベッドから下りた。ところが足に床は触れず、水の下もまた水で、泳ぐほかなかった。泳ぎながらできる範囲で着替えてから部屋を出て、さらに通りに出ると、やはり人々は歩くかわりに泳いでいた。でも、通りや歩道ではなく水があることを、誰もおかしいと思っている様子がない。サンドゥンガは片腕で水を掻いて進んだ。もう一方の手は、濡れないように仕事用の白衣を高く掲げていたからだ。仕事場に着いたときにずぶ濡れになっていたら、「使い物にならん。帰れ」と支配人に追い返されるかもしれない。泳いでいくあいだ、物売りの娘たちとすれ違った。頭の上に籠をのせて上手にバランスをとる技には舌を巻くしかない。籠の中は、エンパニサードと呼ばれる揚げた魚やトゴゴーロ[注:淡水にすむ小型の巻貝]、殻を剥いてトルティージャといっしょに客に供するエビ、メキシカンライス、チレのチーズ詰め、焼きバナナなんかでいっぱいだ。ロス・ポルタレスに向かう堤防に沿って、あるいは海岸そのものにも、そう、ビジャ・デル・マルやもっと遠いモカンボにも、彼女たちの姿がある。もちろんそうした女たちも泳いでいるが、籠は頭にのせているので両腕で水を掻き、笑みだって絶やさない。そうしてやはりほほ笑みながら、つやつやと輝く黒髪を三つ編みにしたとても若い娘がやってくるのが見えた。どんな女にせよ、そんなまなざしを向けられたことは一度もないというくらいやさしい目でこちらを見ている。サンドゥンガは彼女が通りすぎ、波間に姿が消えていくまでぼんやり見ていたが、今のは母アガピータだとふと気づき、待ってくれと大声でわめこうとした。でも口を開いたとたん、水がどっと流れ込んできて、その瞬間、彼は底なしの青い海を泳ぐ魚となり、ようやくまた水面に顔を出したときには、あたりは一面真っ青で、海の青と空の青が溶け合い、もはや方角もなくなって、北も南も東も西も意味をなさず、同じように上や下、右や左も消えた。世界は青一色に染めあげられ、海で泳いでいるのか、穢れのない真っ白な翼で舞う天使さながら空を飛んでいるのか、もはやわからない。しかしそこへ、白い船体に〈イピランガ〉号と記された大きな船が通りかかった。甲板は、別れを惜しむようにハンカチや帽子を振る、幸せそうな乗客でいっぱいだ。その中にはポルフィリオ・ディアス[注:1877年‐1880年、1884年‐1911年の2期、合わせて30年以上にわたって独裁制を布いたメキシコ大統領。メキシコ革命につながる反乱によって失脚し、〈イピランガ〉号でパリに亡命する]やその妻のカルメン・ロメロ・ルビオ、その家族もいるが、娘のアマーダの姿だけは見えない。そして、船上の群衆にアガピータもまじっている。薄絹かチュールに覆われた真っ白なドレスをまとい、やはり白い帽子を振っていて、サンドゥンガとともに泳いでいた物売り娘たちにも増してにこにこしている。「母さん!」サンドゥンガはやっと声が出るようになった。「待ってくれ!」でも母には聞こえず、その姿はしだいにぼんやりしていき、群衆の中に紛れて、船はもはや船ではなくなり、巨大な飛行機に姿を変えて青空でぐるぐると旋回し、でもその下の海には影すら映っていなかった。