Cristina Fernández Cubas 著『Lo que no se ve』の表紙

見えないもの

レポート執筆者:村岡 直子

Naoko Muraoka

■概要

 活人画づくりに興じる老姉妹、イタリアの大聖堂で異空間に迷い込んだ男、見慣れた場所に突如現れた、古びたろうそく屋……。日常に潜む恐怖や一瞬ですべてを変える心の動きを短編の名手が巧みに描き出し、目には見えないもの、言葉で説明できない何かを浮き彫りにする。6篇を収めた珠玉の作品集。

■あらすじ

◇第1話「あなたはジョーン、私はベティ」

 ジョーンとベティの姉妹は、子どもの頃から映画が大好きだった。日曜の午後に家族で映画を見るときは、厳格な両親もくつろいで、「“完”が出た後に何が起きるか?」を言い合うゲームに興じていた。

 若い頃に見た『何がジェーンに起こったか?』の出演者、ジョーン・クロフォードとベティ・デイヴィスになぞらえて、お互いをジョーン、ベティと呼び合うふたり。本名はもう忘れてしまった。結婚と離婚を経験して、両親のいなくなった実家に戻ってきてからは、ずっと一緒に暮らしている。映画に出てくるのとそっくりの衣装を作ってシーンを再現し、活人画を作るのが楽しみだ。

 だが老境に入り、ジョーンは認知症が進行していた。やがて来る運命を受け入れることにしたふたりは、子どもの頃にしたゲーム「“完”が出た後に何が起きるか?」を実践するため、映画のラストシーンのように海岸に向かう。やがて発見されたのは浜辺に横たわり、何ものにも離されまいとしているかのように、きつく手を握った姉妹の姿。それは彼女たちが描いた最後の活人画だった。

◇第2話「パーティの話題は?」

 高校生のとき、クレメンスと隣の席になった。すごく太った女の子で、成績はクラスで一番、みんなに尊敬されていた。私たちは気が合い、すぐに親友になった。フランス語の臨時教員、マルティネスに恋い焦がれて、どちらが彼の気を引けるか競い合ったりもした。だけどクレメンスと学校の外で会ったことはなかった。母親が厳しくて、放課後や週末に遊びに出かけることができなかったからだ。

 終業式の日、いつもクレメンスが乗る列車まで時間があったので、「うちでお茶しない?」と誘ってみた。クレメンスはすごく喜んで、顔を輝かせた。ところが校門を出ると、急に彼女の姿が色あせて見えた。あふれ出る知性の持ち主と知らなければ、ただの太った、野暮ったい女の子だ。この子が親友だと紹介したら、家族はどんな反応を見せるだろうと思うと憂鬱になり、とっさに嘘をついた。「今日は父さんの誕生日なの。いやだ、どうして忘れてたんだろ」クレメンスはすぐに嘘と見破ったようで、悲しそうな顔になった。立ちすくんでいる彼女を残して、私は家に帰った。

◇第3話「モモニオ」

 大学1年生のとき、離れがたい友人グループができた。パブロ、アロンソ、ダミアン、ラウラ、そして私。ある夏の夜、5人で集まって大騒ぎした。人生で一番幸せな日々が、それからもずっと続くと思っていた。パブロが降霊会をやろうと言い出すまでは。私は気が乗らなかったが、密かに憧れているパブロの提案には逆らえなかった。一方ラウラは積極的に、降霊会のプランに賛成した。それは子どもの頃の経験に由来している。小さい頃、悪いことをするとデモニオ(悪魔)が来ると大人に脅されていたが、舌足らずのラウラはデモニオを「モモニオ」としか発音できなかった。すると一瞬にして緊張が緩み、怒っていた大人でさえ笑い出したというのだ。だから今回も、怖いものが降りてきてもモモニオのように、舌足らずに言い換えてしまえば怖くなんかないと楽観していた。

 男の子たちも賛成したので、5人で手をつなぎ、輪になって座った。静寂のなか、この世のものならぬ存在を呼び出す声だけが響き出すと私はけいれんを起こし、その場にいるのが耐えられなくなって、皆が止めるのも聞かず自分の家に逃げ帰った。

 翌日、ラウラが訪ねてきた。ひっかき傷のできた真っ青な顔で、私が帰ったあとの出来事を話した。霊を呼び出しているうちに、集団パニックに陥ったのだという。皆がはかりしれない恐怖に襲われ、壁に掛けられていた十字架にすがりつこうと争った。傷はその際についたものだ。「でも、モモニオと言い換えれば大丈夫だったんじゃないの?」と私は不思議がった。するとラウラは叫んだ。「モモニオは冗談が嫌いだったの。だから私たちを罰したのよ!」友情は儚く消え去り、それ以降、皆で集まることはなくなった。

◇第4話「中国人の姉」

 私が生まれる前、両親は中国生まれの女の子を養子に迎え、ビオレタ(スミレ)と名付けた。姉が1歳になったとき、私が生まれた。華奢で愛らしい姉と、体が大きくて不細工な私。皆が姉だけをちやほやする。嫉妬と恨みの日々が始まった。

 私の名はアデルファ(キョウチクトウ)。美しいが、毒のある花の名前だ。思春期になり、私は家のなかの自分と外の自分を使い分けるようになった。家では姉の影に隠れ、外では自分という存在を取りもどした。それで自分を正常に保っているつもりだったが、ときどき、キョウチクトウを調理して姉に食べさせ、殺してしまう夢を見た。

 姉は中国語を勉強し、奨学金を得て上海の大学に留学した。もう比べられることもなくなった私は、のびのびと自分らしく暮らし、活き活きと輝きはじめた。帰国の日、空港に姿を見せた姉は、疲れきってしおれたようになっていた。ところが抱き合った瞬間、まるで私の養分が姉に吸い込まれたように、ビオレタは元の美しさを取りもどし、私はくすんだ存在に戻った。その夜再び、キョウチクトウを姉に食べさせる夢を見た。

◇第5話「イル・ブーコ」

 私は妻リラと共にイタリアにやってきた。イタリア好きのリラに同行しただけの、気の乗らない旅行だ。大聖堂に行ったが、観光客の多さに辟易して、私はひとりで静かな側廊に入った。するとなぜか、昔ギリシャで感じた風が吹いてきて、そのとき一緒にいた元恋人、エンマを思い出した。目を閉じると、そこにあるはずのない風景も現れた。賢人たち、巨大な図書館……。その場所はイル・ブーコ(穴、隠れ家)という名だと、なぜか私にはわかっていた。

 エンマとは何でもわかり合える仲だった。リラには、噛んで含めるように話しても通じない。私に関心がないのだ。7年前に知り合った頃の、かわいくて優しいリラはどこかに行ってしまった。

 もうしばらくイタリアに残ると言い出したリラを残して、ひとりでスペインに帰国することにした私は、解放感にあふれていた。これからは自分の意志で様々な土地を訪れようと決めている。ところがどういう運命の巡り合わせか、空港でエンマと出会った。ここに来てずっと彼女のことを考えていたのは予兆だったのかもしれない。ふたりの冒険が始まる予感を胸に、私たちは飛行機に乗り込んだ。

◇第6話「生きたろうそく」

 記録的な猛暑の日、ハナは強い日差しと高温、疲れのせいで信号がよく見えず、車に轢かれそうになった。運転手が悪口雑言をまき散らして行ってしまったあと、日陰をさがしてあたりを見回したハナは、《カンデラ・ビバ(生きたろうそく)》という見慣れない看板があることに気づいて戸惑った。ろうそく屋のようだ。50年近くこの地区に住んでいるのに、この店の存在を今まで知らなかった。『トワイライト・ゾーン』など非現実的な物語が好きなハナは、その店のミステリアスなたたずまいに惹かれてなかに入ってみた。

 店主はカンデラという名のとても話しやすい女性で、初対面にもかかわらず、ハナは身の上話を打ち明けていた。話しているうちに、燭台にともっていた3本のろうそくが、だんだんと消えていく。カンデラが店を閉めると言ったので、ハナは外に出た。また耐えきれない暑さが襲ってきたが、足取りも軽く横断歩道を渡ろうとした。するとブレーキの音、運転手の罵り声。かすむ目で、ハナは看板の文字が点滅し、すっと消えるのを見た。

 道路に横たわったハナの遺体の表情は、奇妙なほど幸せそうで、満足げだった。

■所感・評価 

 現代スペインで最も巧みな短編の書き手として知られる著者が紡ぐ6篇の物語。それぞれ登場人物の設定もストーリー展開も共通点はほとんどないが、いずれも日常と非日常、幸福と不幸が切り替わる瞬間を鮮やかな筆致で切り取り、心の奥に隠れていた感情、言語化できないが確かにあるものの存在を浮かびあがらせる。

 第1話「あなたはジョーン、私はベティ」と第4話「中国人の姉」では姉妹の愛憎、そして第2話「パーティの話題は?」と、オカルト色の濃い第3話「モモニオ」では、もろくも崩れ去る友情が描かれている。第2話、第3話ともに、著者自身が青春時代を過ごした60~70年代が時代背景として設定されており、2025年に80歳を迎えた作家の手になるものとは思えないほど、ティーンエイジャーの心の動きがみずみずしく描写されている。

 ぎすぎすした夫婦関係に嫌気がさした男が、白日夢を見たことを契機に未来への展望を抱く第5話の「イル・ブーコ」には、本書で唯一、明るさを感じさせる結末が用意されている。だがラストシーンのあと、主人公は本当に幸せになるのか、それとも倦怠感がただよう日常に戻るのか、それはだれにもわからない。作者はスペイン国営放送のインタビューで、「よい小説とは、読み終わったあと心に残るもの。読者はその小説について考えつづけ、また別の結末を思いつくかもしれない。人生と同じように、結末がひとつである必要はない」と語っており、その考えが反映されたかのような、余韻を残す話になっている。

 個人的に最も満足度が高かったのが、最終話「生きたろうそく」だ。あやうく車に轢かれそうになったあと、入ったろうそく屋で優しげな女性店主カンデラにこれまでの人生を語るハナ。外に出て再び事故に遭い、今度は本当に死んでしまうのだが、実は一度目の事故ですでに亡くなっており、ろうそく屋での出来事は死の間際に見た走馬灯のようなものだった--ということが、最後になってわかる仕掛けになっている。よく練られた幻想譚だ。

 作者クリスティーナ・フェルナンデス=クバスはこれまでスペイン国民小説賞、国民文学者賞、批評家賞といった名だたる文学賞を総なめにしてきたベテラン作家。不安定な状況に置かれた女性の心理を描写した短編小説を得意とするが、他にも長編小説、戯曲、児童書など執筆ジャンルは幅広く、『フランケンシュタイン』のメアリー・シェリー、『ねじの回転』のヘンリー・ジェイムズ、そしてエドガー・アラン・ポーの影響を強く受けたというだけあって、現実と幻想が入り交じった作風で知られている。本書もそうだが、惨劇が繰り広げられるホラーではなく、じわじわくる心理的恐怖を扱っているのが特徴だ。日本の現代作家でいえば恒川光太郎、朱川湊人、あるいは乙一にも通じるものがあるだろうか。

 懸念材料はまだ邦訳のない作家の短編集であることだが、著者の作品は既に10言語に翻訳されており、本書も高い評価を得ていること、日本人に好まれる作風であることなどを訴求ポイントに、邦訳出版につなげていければと願っている。

■試訳

(p150 下から3行目からp152 10行目まで。最終話「生きたろうそく」で、主人公ハナがろうそく屋に入り、店主に話しかけた場面)

「ここはいいところですね」

 女性はうなずき、ほほえんだ。

「素焼きの水差しのなかの温度なのよ」ハナの前に来て、椅子に腰掛けながら言った。「洞窟や酒蔵、地下室にいるようなものね……。気に入っていただけてうれしいわ」

 優しげな人だ。ゆっくり、すごくゆっくりしゃべる。まるで時間はドアの向こうの世界でだけ流れているとでもいうように。ハナはたまたま立ち寄って、そこにいるだけ。それともすらりと背が高く、声が少ししわがれて、ゆっくりと調和のとれた動きをするこの女性は、人目につかない商売をやっていくのにうんざりしていて、話せそうな相手が来ると舞い上がり、ぼんやりしてしまうのだろうか。ちょうど今の、ハナのような相手が。

「私はハナ」話の切れ目にようやく名乗った。「住んでるのはすぐ近く、ほんの二区画先だけど、ここを通ったときにこのお店を見たことは一度もなかったわ」

「でも今日はついに、見つけたわけでしょ? 皆さんそうなのよ。うちのお客さんは……」

 うちのお客さんと言うとき、ほんの少し誇らしげだったのに気づいた。明らかにうれしそうだ。そしてハナはなんとなく、自分が選ばれし者になったような気がした。『ヒッチコック劇場』や『トワイライト・ゾーン』で、魔法の店に入った子どものように。でも、それがどうしたというのだ。このろうそく屋にはきっと非常に限られた数の、でも忠実な顧客しかいないに違いない。ハナと同じく、ある日突然この変わった商店に気づき、それ以来小さなファミリーの一員となった人々だ。きっとお互いを誇りに思っている。とはいえ、こういうろうそく屋が一体どうやったら生き残っていけるのだろう。いずれ消えゆく運命なのは間違いないのに。

「そんなこと思わないで」ほほえみながら女性が言った。「顧客リストはどこまでも続いてるの。お客さんが途切れないのよ……」

 まるでこちらの考えを読まれたかのように、言葉にしていない問いに答えが返ってきたことに、ハナはそれほど驚かなかった。おそらくこれまでやってきた客に、意外にも《どこまでも続いている》らしいファミリーのメンバーに、何度となくそう訊かれてきたのだと思った。「それはよかった」と言おうとした。だけど言う前に、女性が口を開いた。

「ああ、自己紹介の途中だったわね。あなたは……ハナだったかしら……? 私はカンデラ(ろうそく)といいます」

 これほどぴったりな名前はなかった。再びほほえむ女性をハナはまじまじと見た。美しい人だ。いや、美しいというか……特別? 《魅力的》というほうがしっくりくるかもしれない。《不思議》でもあるけど。いずれにしても、年齢を当てられそうな気はしなかった。カンデラのように奇妙に美しく魅力的で、風変わりな女性に年齢はない。今、ここに存在しているだけ。