半世紀以上にわたって、外交官としてスペイン語圏諸国と日本を外交でつなぐだけではなく、文学でも太い絆を築いてこられた林屋永吉・元駐スペイン特命全権大使。騒がしい都会の中心にありながら、静かにたたずむ瀟洒な洋館に林屋大使を訪ね、2つの文化圏の交流史についてお話を伺いました。
スペイン語の勉強を始めたきっかけ
元々私は美術や歴史が好きでしてね、数学が苦手だったんですよ。大学で何を勉強しようかと考えたときに、中学生の時によく読んだ新村出先生の南蛮関連の本で覚えたイスパニアやインディアスのことを思い出したんです。その上、当時は映画館へ行くとニュース映画でスペインの内乱の様子や町の模様が頻繁に紹介されていて、戦況よりも、出てくる人々や町の風情に親しみを覚えるようになりました。そしてある日、大阪の朝日会館でフラメンコのポーリン・チェックという踊り手がエスパーニャ・カニーという曲でスペイン舞踏を踊ったのをみて、この曲にすっかり魅せられ、なんとしてもスペインへ行って勉強したいという思いにかられたのです。そのためにはまず日本で学ぼうと大阪外国語学校(現大阪外大)のスペイン語科に入りました。
戦時中、外務省留学生としてスペインへ
卒業前の1年間猛勉強をして、外務省の留学生試験に合格しましたが、≪徴兵検査に合格しなかったら≫という条件付きの留学でした。徴兵検査に合格した人には、出国に必要な旅券が出なかったんです。そこで私は恐る恐る指定された検査場へ行きました。そしたら徴兵官が、「お前は外務省からスペインへ留学することになっているんだね。お国のためにつくす途には変わりはない。しっかり勉強してこい」と言って、「第3乙種合格」(すなわち不徴兵)と宣言してくれたんです。涙が出ましたね。
当時―1941年春―はすでに欧州で戦争が始まっていましたから、シベリア経由も地中海経由もできず、船と汽車を乗り継ぎ、ニューヨーク経由で1ヶ月半をかけスペインに渡ることになりました。ところがニューヨークについてみると、乗るはずの船がすでに出てしまっていて、次の船が出るのは9日後だったんです。この9日間は最高でしたね。そのうち3日間は朝から夕までメトロポリタン美術館で、持っていった岩波の西洋人名事典で画家の名前を一つ一つチェックしながら、初めて観る本物のスペイン美術を堪能しました。
新大陸の植民地化の歴史に惹かれる
スペインではサラマンカ大学文学部言語学科の聴講生として2年間授業を受けました。先生方が皆とても親切で、特にアントニオ・トバール先生は、先生のもとにたびたび集まって「ラサリーリョ」という冊子まで出していたグループに入れてくださり、日本のことを書く機会なども与えてくださいました。41年と42年の夏休みはサンタンデールでの講習、そして43年はサンティアゴ・デ・コンポステラでガリシア・ポルトガル語の夏期講習を受講しました。また43年9月にはセビリア大学のラ・ラビダ修道院での夏期講習を受けたのですが、これは大航海時代のあらゆる分野の最高権威が初めて一堂に会した最初の講習会で、大変勉強になりました。私はこの講習に感銘を受けて、新大陸における法制制度をさらに知りたいと思い、サラマンカ大学で親しくしてくださっていたエリアス・デ・テハーダ先生に指導をお願いして、大学の図書館で「インディアス法制集」の原本「Recopilación de las Leyes de las Indias」の読み方から教えていただきました。私はそれ以来このテーマにのめりこみ、帰国後コロンブスの航海史はじめ、大航海時代の歴史や先住民文化に関する基本的な文献を日本語にして紹介してきたのも、この時の授業のお陰だと思っています。
1945年の日本敗戦直前、フランコ政権は突然日本と国交を断絶しました。私たち、公使以下約15名の日本人は、マドリードの日本公使館の公邸で9ヶ月間寝起きすることになりました。私にとっては、それが誠に幸いしましたね。その間、いつかは読もうと買いためてあった本を片っぱしから読むことができたのですから。
戦後の日本に帰国後、1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効してようやく外交再開となり、メキシコに3年半の間、外交官補として勤務しました。その間は中米の5カ国とパナマ、ドミニカ共和国をも兼任してましたから、何か問題があれば現地に飛んでいかねばならず、どの国にも2回から5回は出張したお陰で、マヤ文化に接する機会にも恵まれました。
オクタビオ・パスとの共訳『奥の細道』
私がメキシコに着任してから半年ほど経って、日本滞在から帰国し、国連機関局の次長となったオクタビオ・パスさんに紹介されました。詩人で日本文学にも精通した彼とはすぐに意気投合し、二人で何か日本の文学をスペイン語に訳そうということになったんです。あまり長くなくてまだ英訳されていない作品を検討した末、『奥の細道』はどうだろうかとパスに提案し、さっそく留守宅から原本を送ってもらい作業に取り掛かることにしました。でも、本業の方が忙しくてなかなか翻訳が始められません。そうこうしているうちに、私が珍しく友人宅の庭でバドミントンをしていましたら、アキレス腱を切ってしまい、入院することになったのです。それを知るとパスが病院に駆けつけてきて、「おまえさん、いいことをやったよ!」とニコニコとして言うじゃないですか。「しばらく動けないんだから、翻訳に集中しろよ。毎週、訳を受け取りに来るからね」って。そうして1ヶ月くらいかけて七分通りの翻訳を終えました。そして1955年の夏までには注の一部を残して一応完了し、とりあえずメキシコ国立大学での出版が決まったところで帰国したのです。初版は無事1957年7月に出版され、その後2回改訂版が出ました(1970年Barral/1981年Seix Barral)。散文は九分通りこちらの訳の通りでしたが、俳句の訳はかなりたくさんパスさんの直しが入り、「なるほど」と感心しましたが、1句だけどうしても彼の訂正に納得できずもめました。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句です。最終的に彼の訳を承諾しましたが、注を付けてほしいと頼みましたら、改訂版で1ページ半の注を入れてくれました。
スペイン語から日本語への翻訳書
スペイン語訳をしたのは『Sendas de Oku(奥の細道)』だけですが、スペイン語からの日本語訳は何冊か出しています。
例えば『マヤ神話 ポポル・ヴフ』(中央公論社)。メキシコにいたころ、グアテマラの石碑に驚嘆したんです。そこからマヤ文明のことを調べようと思って、マヤの神話に関する本を買って帰ったんですが、読んでみてもなかなかわからない。それは絵文字で伝わっていたマヤ文明の伝説を、キチェー人がローマ字表記のキチェー語で書き残していたものを、ヒメネスという神父が見つけてスペイン語に訳したのが発見され、この訳本をアドリアン・レシーノスというグアテマラの学者が改めてスペイン語に訳し直したものでした。マヤの古い歴史物語で、いうなれば日本の『古事記』に当たる本です。ちょうどメキシコに来られた文化人類学者の石田英一郎先生にこの本のことをお話ししたら、ぜひ翻訳してくださいと励まされました。運よく、当時グアテマラの駐スペイン大使だったアドリアン・レシーノスさんに連絡がとれ、何回も手紙の往復をしてわからない部分を丁寧に教えていただきましたが、結局翻訳には4年くらいかかりました。しかし出版社がなかなか見つからず、最後に中央公論社に原稿を預けておりましたところ、ちょうどユカタン半島旅行から帰られた三島由紀夫さんに社長が原稿を見せたら、同氏が序文どころか書評も書いてくださるというお話になったようで、1961年、ついに出版にこぎつけました。北川民次さんの綺麗な挿絵入りの素晴らしい装丁で、970部の番号入り豪華版だったため、すぐに完売してしまいました。限定版でしたので増刷ができず、1972年に装いを異にした改訂版が出ました。このときは、メキシコ近代美術館のバレラ館長の特別のお計らいで、未発表の『ポポル・ヴフ』をテーマにしたディエゴ・リベラのリトグラフを、装丁と17枚の挿絵に使わせてもらって、1500部限定の豪華本になりました。これもすぐに売れ切れになったので、1977年に文庫化され、今日に至っています。この本は苦労して訳した甲斐がありましたね。
その他に、『コロンブス航海誌』(岩波書店)や『コロンブス全航海の報告』(岩波書店)なども出ました。今は『ユカタン事物記』(岩波書店)の改訂版の訳にとりかかっています。
なお、美術関係の著作としては、戦後すぐの1953年に出版された『世界美術全集』(平凡社)で、スペイン美術の解説を3巻にわたって須田国太郎先生と共同執筆させていただいたのが最初でした。
最近のスペイン語からの翻訳書
この10年間には驚くほど多くの優秀な研究者や翻訳者が育ってきて、スペインや中南米の文学作品が次々と翻訳出版されてきました。誠に喜ばしい限りです。しかし残念ながら私は最近、自分がかかわっている仕事に関係がないとすぐには新しい作品を読まなくなってしまい、実は困ったことだと思っているのです。それで最近読んだ本といえば、私も少し関わっているのですが、グアダラハラ大学のメルバ・ファルク レジェス教授とエクトル・パラシオ氏の共著の研究書で、『グアダラハラを征服した日本人―17世紀のメキシコに生きたフアン・デ・パエスの数奇なる生涯』(現代企画室)で、なかなかよくできていますね。来年9月から1年間、支倉常長の慶長遣欧使節団がアカプルコを通ってスペインに渡った400周年を記念して「日本におけるスペイン年」としてさまざまなイベントが開催されるようですが、その慶長遣欧使節団の前にも、京都の商人田中勝介の一行、あるいはまた、隠れキリシタンがマニラに逃げ、そこからアカプルコに渡ったケースなど、まだ詳細が明らかになっていない史実がたくさんあります。本書の発表によって、日本側の研究も進み、新しい事実が見つかるよう期待しています。
スペイン語からの翻訳書でもうひとつ、日本に数年滞在したことのある、マドリード自治大学教授フロレンティーノ・ロダオ氏の長年の研究成果で『フランコと大日本帝国』(晶文社)という大作の日本語訳が出ました。ここでは多くの日本人が知らなかった事実が明らかにされており、関心をよぶことと思います。
日本とスペイン語圏の文化交流
東京にセルバンテス文化センターができてから、スペイン語圏文化の紹介がさかんに行われるようになりました。文化にこれほど力を注ぐスペイン政府には本当に感心しています。
私たちは逆に、スペインでの日本語教育に力を入れていこうと、1999年、スペインのサラマンカ大学の中に「日西文化センター」を設立してもらいました。スペインでも日本への関心が高まっていて、この3年間で日本語の学習者数は約3倍に伸びています。日本語教育の他にも、政治・経済・文化の集中講義も行っています。2009年のデータでは、スペイン全国の56の機関で合計4045人が日本語を勉強していて、その数はついにイタリア人学習者とほとんど変わらなくなりました。これからも日本政府がもっとがんばって、外国人にどんどん日本のことを知ってもらわなくてはいけないと思っています。
林屋永吉(はやしや・えいきち)
1919年(大正8年)京都に生まれる。大阪外国語学校スペイン語科卒業後、外務省留学生としてスペイン・サラマンカ大学に学ぶ。在スペイン・メキシコ・アルゼンチンの各大使館に勤務し、駐ボリビア・駐スペイン特命全権大使を務める。共編著書に『世界の文化・スペイン編』(河出書房新社)、『世界美術大系・スペイン美術』(講談社)、訳書に『マヤ神話 ポポル・ヴフ』(中央公論社)、『ユカタン事物記(大航海時代叢書)』(岩波書店)、『コロンブス第一回航海日誌』(岩波書店)、『コロンブス全航海の報告』(岩波書店)、絵本『たことサボテン』(河出書房新社)、スペイン語訳『奥の細道』(オクタビオ・パスと共訳:メキシコ国立大学)などがある。