小学校の卒業アルバムの「将来なりたいもの」の欄に、私は「SF作家」と書いている。何でただの「作家」ではなく「SF」だったのかというと、幼いころから翻訳文学に親和していた私は、日本の文学は暗くて重くてジメジメと湿っていて、気が合わなかったからだ。小学生のうちから暗くて重くてジメジメと湿っている小説が好きな子も、あまりいないとは思うけれど。
小学高学年のとき、友だちの間で推理小説とSF小説が流行る。私は断然SF小説派だった。空想・妄想が爆発的に果てしなく広がってく小説が好きだった。
だから、ラテンアメリカの小説も、最初は前衛的なSF小説として知った。筒井康隆や安部公房が熱狂的に紹介し、サンリオSF文庫がカルペンティエルの『バロック協奏曲』を刊行したから。私が大学時代にSF小説から広義の文学に関心がシフトしていくのは、安部公房とラテンアメリカの小説にかぶれたためだ。さもなければ、懸命にSF小説を書いて応募していたかもしれない。
ちなみに、安部公房は80年代にドナルド・キーンから、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を「これはあなたが読むべき小説だ」と教えられ、読んで仰天。しかも、だいぶ前に刊行されていたことを知って、版元の新潮社に「こんなすごい小説、もっと宣伝しなくちゃダメじゃないか」と言った、とエッセイに書いている。
イスパノアメリカにのめり込んだ私は、次に集英社の箱入り「ラテンアメリカの文学」集に手を出す。私が最初に魅了されたのは、背表紙に並ぶ名前だった。マルケス、フエンテス、ボルヘス、アストリアス、ビオイ=カサーレス……。ひと続きに読むと呪文のようではないか! なぜなら、みんな「ス」で終わっているから。名前を唱えているだけで、ただならぬ気分になってくる。そんな魔力に惹かれて、ほどなくスペイン語も勉強するようになる。
ラテンアメリカ文学が、当初はSFや幻想文学として紹介されたのは、日本の文学風土と関係している。私が「暗くて重くてジメジメと湿っている」と感じたのは、私小説のせいである。明治以降の日本語近代文学は、ヨーロッパの自然主義を独自に解釈したリアリズムが主流を作り上げた。いかに本物の人生の真実に迫るかが重視され、やがて自分の恥にまみれた体験を赤裸々に書いてこそ文学、というような価値観が確立される。己のどうしようもなさを告白し、破滅的な生き方を競って書くようになる。結核に罹っていない自分は一人前の作家になれない、と悩んだ文学青年もいたぐらいだ。
そんな文学基準からしたら、リアリズムから遠く高く飛翔していくラテンアメリカの小説は、文学ではない。異端だ。それで当初は、サブカルチャーのように扱われたのだろう。
けれど、日本語の文学も、私小説の伝統から解放されつつあった。それで、ラテンアメリカ文学もコアな文学として見直され、欧米より10年ほど遅れて1980年代に大ブームとなった。
時代はポストモダンに突入していた。それで、今度はラテンアメリカ文学はポストモダン小説の一端として解釈され始めた。確かに、欧米の近代文学がヌーボーロマンという果てに突き当たって身動き取れなくなっていたとき、それを平然と超えてしまうラテンアメリカ小説はポスト近代とも言えた。でも、極私的な世界を志向するいわゆるポストモダン小説と同列に捉えるのには、私は違和感があった。
それはラテンアメリカの文学は、極めてヘビーな現実と格闘していたからだ。私がラテンアメリカ文学から学んだことの一つは、文学は政治を扱ってよいのだ、ということだ。というか、政治を抜いたら、ラテンアメリカのほとんどの小説は成り立たない。政治的主張を小説に書く、ということではなく、政治の暴力が社会を切り刻む光景を、スルーせずに書く、ということだ。
日本の私小説は政治を忌避してきたし、ポストモダン以降の文学も政治を書くことを嫌っている。そのことと、日本が政治に無関心な人の多い社会になっていることとは、パラレルだと思う。
ラテンアメリカの小説が幻想や誇張を多用したのは、現実が唖然とするような出来事に満ちているからだけではなく、リアリズムで政治や歴史や暴力を描くことに限界があったからだ。それでは現実の感触を表現できないからだ。
でも、ふと気づく。それって、SF小説が用いてきた手法ではないか。だから私は取り憑かれたのではないか。やっぱりラテンアメリカ文学はSFだったのか?
21世紀に入ってからは、スペイン語圏の作家も世代交代し、私と同世代の書き手が活躍するようになった。20世紀後半の「ブーム」の世代と違って、一見ポストモダン的な手法を駆使しながら、社会や歴史と格闘している作品が増えた。それはスペイン文学も同じで、その意味では20世紀に比べ、双方の小説の感触が似てきたと思う。それどころか、日本語の現代文学も近似してきている。私自身、ボラーニョ以降の作家には親近感を覚える。
それはすなわち、読み手たちもスペイン語圏の現代文学に、近寄りやすくなっていることを意味するのではないだろうか。どんどん翻訳するチャンスである!
星野智幸(ほしの・ともゆき)
1965年米国ロサンゼルス生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、2 年半の新聞記者勤めを経て、2年のメキシコ留学。1997年、『最後の吐息』で文藝賞を受賞してデビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、2003年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、2011年『俺俺』で大江健三郎賞、2014年『夜は終わらない』で読売文学賞を受賞。近著に『呪文』、エッセイ集『未来の記憶は蘭のなかで作られる』など。