Essay
高木和子 氏 (インタースペイン、セルバンテス書店・代表)
今でこそ海外からも簡単に本が買えたり、電子書籍で気軽に洋書が楽しめる時代になりましたが、数十年前までは、日本でスペイン語の書籍と出会える場は本当に限られていました。そんな時代、市ヶ谷でスペイン人修道女たちが経営していたマナンティアル書店がありました。そのお店を引き継ぎ、現在もスペイン語書籍の泉として重要な拠点となっているセルバンテス書店を率いる高木さんのエッセイをお届けします。
本を書く人、挿絵を描く人、翻訳する人、編集する人、校正する人、デザインする人、宣伝する人、批評する人、研究する人、そして、読む人に届ける書店。本に関わるたくさんの人たち。このエッセイは、いままでこのシリーズでは一度も光があたらなかった書店の物語です。
洋書が今ほど簡単に手に入らなかった当時、市ヶ谷の駅から坂を登りきった場所にあるビル。スペイン語で楽しそうに会話をしながら、棚の整理や本の梱包や発送などの作業をしているスペイン人女性たちの姿が見えます。
「そういえば、マナンティアル書店を運営している修道女たちがそろそろスペインに帰国するらしく、業務を引き継いでくれる人を探している。もし見つからない場合は20年以上続いたけど閉店してしまうそうだ」創業パートナー、イニャキ・ソトがこの話を聞いたのはparchísというボードゲーム中。SNSもなかった1997年当時、在京スペイン人の仲間たちは定期的に集い、ゲームなどをしながら情報交換をしていたそうです。そのあとすぐに書店を訪ねてご縁がつながったことで、私たちが書店を引き継ぐことになりました。

日本を離れる数ヶ月前から引き継ぎが始まりました。まずは、目録作成。まだパソコンもデータベースも今ほど一般に普及していなかったので、目録がなく、データベース化するための作業が始まりました。
レオノールさんと私、マリルスさんとイニャキがそれぞれペアになり、読み上げるタイトルを聞いてパソコンに入力。数千冊あった蔵書の入力を終えるのに2ヶ月ほどかかりました。当時は蔵書の多くが宗教書であり、スペイン語の宗教用語の入ったタイトルを聞き取ることができず、何度も聞き返しました。その都度、l,i,t,ur,g,iaなどと、一語一語、綴を辛抱強 教えてくれたことを覚えています。
レオノールさん、マリルスさん、カルメンさん、それぞれ、持病がある、足が痛い、など問題を抱えていたにもかかわらず、本の詰まった重いダンボール箱をあちらこちらに運び毎日朝から夕方までくるくるとよく働いていました。毎日午後3時頃にはどんなに忙しくても仕事の手を止め、みんなでテーブルを囲んで一息つくティータイムがありました。温かい紅茶と缶に入ったクッキーをつまみながら話に花が咲きました。話の内容はほとんど覚えていないのですが、その穏やかで楽しい光景は今でも鮮明に記憶に残っています。
楽しみながら仕事をする一方で、彼女たちは非常に優秀な経営者であり、数字管理には厳しい面も持っていたように思います。異国で事業をゼロから立ち上げ持続するためには、相当な努力が必要だったのではないかと想像に難くありません。日本語にもなかなかご苦労されていたようでした。そう考えると、先輩経営者である彼女たちにますます尊敬の念を抱きます。
さて、引き継ぎもそろそろ終わりが見えてきたある日、レオノールさんが箱から取り出して見せてくれたのが、古い紙に 印刷された目にも鮮やかな金や青が美しい数枚の画像でした。「これはとても高価で研究者にとて貴重な資料なのよ」。全く知識を持ち合わせていなかった当時の私は「ミュージアムショップで 売っているポスターのようなものだろう」程度の感想とともにその存在は忘却の彼方に。
その後、彼女たちは長年住んだ日本を後に本国へ帰国していきました。その頃のマナンティアル書店は、彼女たちの活動拠点であるパンプローナ本店をはじめ、東京やローマにも支店がありました。スペインのブックフェアに参加するためにスペインに行く途中、ローマのマナンティアル書店に立ち寄り、「引き継いだ書店は私たちが運営していますからご安心ください」と直接伝えることができたことも懐かしい思い出です。
数年後、マナンティアル書店はセルバンテス書店に生まれ変わり、現在に至ります。1997年のあの当時、書店経営についての知識がほぼない私たちに、故郷から遠く離れた日本でゼロから立ち上げて長年運営してきた書店を譲る。彼女たちにとって人生をかけて育てた子どものような宝物を引き渡してくれたことに対して、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
現在、書店をご利用されるお客様の中には、ご自身の研究分野の収書にとどまらず、大学図書館を大学の垣根を超えた研究者コミュニティや、地域社会の利用者にとって貴重な資料に触れることのできる場として捉え、資料収集に熱心に取り組む図書館員や研究者の方々がいらっしゃいます。高度な専門性をお持ちの方々からのリクエストに応じてスペイン語圏の様々な研究分野に関する書籍の収集をお手伝いさせていただくことがあります。私たちにとっても、知的刺激に満ちた喜びの多い仕事です。
2021年、ご要望をいただき収集のお手伝いさせていただいたのが、羊皮紙で作られた装飾写本でした。王立サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院図書館や、パリのアルスナル図書館、ニューヨークのモルガン図書館などに蔵書されているオリジナルを忠実に再現した限定品の装飾写本は、時代を超えた貴重な資料として世界各地の著名な大学図書館に所蔵されています。多くの研究者が資料として活用し、そこから学術論文などの研究成果が日々生み出されています。会社のウェブサイトには、本物の羊皮紙を使った写本を中世の工法に忠実に再現している世界で唯一無二の会社、と書かれていました。業務上のやりとりはメールで十分なのですが、「世界で唯一無二と聞き、どのような人たちがどのような思いで作っているのかを知りたくなり、バレンシアの工房に電話をかけました。リカルド社長と直接お話することができました。
「当初は上質紙を使っていたのだが、3000年以上も保存が可能だと言われている羊皮紙で写本をつくりたいという長年の夢を叶えたかった。数年前からはすべての写本をノルウェー産の羊の皮から手作りした羊皮紙で制作しているんだ」と勢いよく語ってくれました。こうしてまたご縁がつながり、貴重な羊皮紙で作られた写本を日本に紹介するお手伝いを始めることになりました。
後日、バレンシアから日本に届いた写本。目にも鮮やかなラピスラズリの青、金で彩られたアルフォンソ10世の姿。すっかり記憶の彼方に押しやられていたあの図版を取り出してみると当時の色彩そのまま。数世紀にも渡って保存されるのですから25年ぐらいはどうってことないようです。写本に書かれた言葉は「写字生による未来の人へのメッセージ」だと言われているそうです。眺めているうちに、「これは研究者にとって貴重な資料だ」というレオノールさんのメッセージも蘇ってきました。色褪せない思い出です。
高木(米川)和子(たかぎ・よねかわ・かずこ)
日本の大手損害保険会社勤務。マドリードにて日系銀行に勤務し帰国。志摩スペイン村パルケ・エスパーニャの立ち上げに参加。1997年にインタースペインを創業・以来、取締役としてセルバンテス書店、インタースペイン留学センター、志摩スペイン村のスペイン人エンターテイナー管理業務等の経営に携わる。スクリプトリウム社日本総代理店 外国語教育にも高い関心を持ち、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス、神奈川大学等で非常勤講師としてスペイン語教育実践中。実践と理論を循環させるため、現在、Universidad Nacional de Educación a Distancia (UNED)博士課程にて研究、博士論文を執筆中。経営学修士(MBA)