■概要
21世紀の吸血鬼は昔とは違う。昔のドラキュラは黒いマントを羽織る中年貴族の伯爵だったが、今のヴァンパイアは、映画『トワイライト~初恋~』のエドワードのように悩める普通の若者になった。経済危機や政治抗争、SNS、感染症によって世界中に不安が広がり、ヴァンパイア像も多様に変化してきた。本書は、映画やドラマ、コミックから現代のヴァンパイア作品9点を選んで分析する。私たちがイメージする黒いマントのドラキュラ伯爵は、15世紀のトランシルバニアの伝説から、18世紀の啓蒙主義、19世紀のロマン主義を経て創られたブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』である。それが1980年代以降どのように変容していったかを見ていく。
■目次
イントロダクション
年表
第1章 吸血鬼とは何か
第2章 ドラキュラ伯爵
第3章 ベラ
取り上げる素材は、映画『トワイライト~初恋~』(キャサリン・ハードウィック監督、2008年)
第4章 リスタト
映画『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(ニール・ジョーダン監督、1994年)
第5章 キャシディ
グラフィックノベル『プリーチャー』(ガース・エニス、スティーヴ・ディロン、1995-2000年)[1]
第6章 ラ・チカ(少女)
映画『ザ・ヴァンパイア~残酷な牙を持つ少女~』(アナ・リリ・アミリプール監督、2014年)
第7章 マーセリン
テレビアニメ『アドベンチャー・タイム』(米国の子供テレビアニメ。2010-2018年放映)
第8章 イブ
映画『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(ジム・ジャームッシュ監督、2013年)
第9章 フェルナンド
コミック『ヴァンパイア』(ジョアン・スファール、2001-2005年)[2]
テレビドラマ『ドラキュラ』(BBCドラマシリーズ、マーク・ゲイティス、スティーブン・モファット、2020年)
謝辞
固有名詞インデックス
■内容
本書の構成
本書の構成は、1章、2章で吸血鬼の表象が20世紀後半以降どのように変容していったかを明らかにし、3章から10章で代表的な映画やテレビドラマ、コミックをそれぞれ取り上げて、作成された社会的背景を鑑みながら作品について語る。ここでは、代表的なものとして第4章、第6章、第10章の概要を以下に挙げる。
なお、吸血鬼とは、人間の血を吸って栄養源にし、血を吸われた人間は吸血鬼になる。また、何度でもよみがえり、不死というのが共通認識である。呼び方については吸血鬼とヴァンパイアがあるが、本レポートでは「吸血鬼」を全体の総称、及び作家ブラム・ストーカーが小説『吸血鬼ドラキュラ』で創った黒いマントの中年貴族といった昔ながらのイメージに使用する。それ以外、とりわけ現在の吸血鬼を表わす場合は「ヴァンパイア」とした。
第4章 リスタト:映画『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(ニール・ジョーダン監督、1994年)
原作は、アン・ライスの『夜明けのヴァンパイア』。黒いマントを翻す中年のドラキュラのイメージを脱し、美しいロマンチックなヴァンパイアたちが登場する。18世紀末のイギリスから独立したばかりの米国ニューオリンズが舞台。妻や子を失い生きる気力を失ったルイは、血を求めて貪欲に人間を襲うヴァンパイアのリスタトに襲われ、ヴァンパイアになる。だが、無実な人間の血を飲んで命を長らえることに良心の呵責を抑えられない。
ルイのように人間を襲うのに躊躇するヴァンパイアは、80年代以降急増し始めた。美女の吸血鬼に魅せられるニコラス・ケイジ主演の映画『バンパイア・キッス』もそのひとつだ。80年代は米国レーガン政権によるイラン・コントラ事件など政治不信が表面化した時代で、多くの若者が従来の固定化された秩序に異を唱え出した。その影響で、ヴァンパイア映画も映画『ブレイド』(1998年)のような、悪と戦う正義の味方のヴァンパイアが現れるようになった。
また、著者は、「血」にも注目する。血は吸血鬼にとって喜びでありエクスタシーをそそるものであるが、邪悪なものでもある。折しも本映画が封切られた1994年は血液によって感染する病、エイズが初めて死者を出した年であった。映画の世界で血のシーンが撮られたのは、1958年に作成された『吸血鬼ドラキュラ』からだった。映像の質が良くないために血が際立って怖さが増した印象がある。章の最後に、映画化されるにあたって原作者のアン・ライスが、トム・クルーズがリスタトを演じるのに反対したというエピソードが明かされている。
第6章 ラ・チカ(少女):映画『ザ・ヴァンパイア~残酷な牙を持つ少女~』(アナ・リリ・アミリプール監督、2014年)
イランと思われるゴーストタウン、バッド・シティが舞台。夜の街をスケートボードで駆け抜けるヴァンパイアの少女が主人公。翻ったチャドルの下にはボーダーのTシャツが見える。名もアイデンティティも明かされない。彼女はただ女を苦しめる男を攻撃するだけだ。
本映画のテーマはフェミニズム。城を持つ吸血鬼に対し、その庇護を受けざるを得ない女性という構造は、昔の吸血鬼映画だけの話ではない。資本主義の時代になってもこの構造は続いている。フェミニズム運動のうねりが広がりを見せても、女性を服従の対象とする映画は作り続けられてきた。映画『エマニュエル夫人』(1974年)もそのひとつだ。80年代になり、ようやく映画にも離婚や独身、同棲といったテーマが見られるようになった。ヴァンパイア映画でも、不老不死の女ヴァンパイアがパートナーの男性に老化の兆候が現れたのに気づき、美しく若い女性に乗り換えようとする映画『ハンガー』(トニー・スコット監督、1983年)のような作品も現れた。だが、21世紀になってもまだ、不況の嵐が吹けば失業の憂き目に会って苦しむのは、非正規で働く女性たちだ。アナ・リリ・アミリプール監督は、そんな女性たちのために、マントの代わりにチャドルを羽織って、偉そうに振舞う男どもに立ち向かう美しい女ヴァンパイアの作品を作ったのだ。
第10章 アガサ:ドラマ『ドラキュラ』(BBCドラマシリーズ、マーク・ゲイティス、スティーブン・モファット、2020年)
英国国営放送BBCのドラマ『シャーロック』の制作チームが作成したこのドラマは、昔ながらの吸血鬼像に現代的要素を盛り込んだ娯楽作品だ。このドラマでドラキュラ伯爵と対決するヴァンパイア・ハンターはアガサ・ヴァン・ヘイシング。神を信じない無神論者の修道女。宗教ではなく科学的な真相解明に挑む。それに対するドラキュラは一見、鏡、十字架、太陽の光を恐れる吸血鬼だが、人間の血を吸うことで生命力を得るばかりか犠牲者の人生や能力、思い出といったアイデンティティすべてを吸収してしまう恐ろしい吸血鬼である。
このドラマは3回シリーズで、第1話は19世紀のトランシルバニア、ドラキュラの居城と修道院が舞台。神を信じないアガサはドラキュラを攻撃するためにその弱点を次々に試していくが、結局修道女たちはドラキュラに殺害される。第2話は19世紀のヨーロッパからイギリスに向かう船が舞台。階級差や人種差別がはびこる船の中で、乗客がひとりずつドラキュラの餌食になっていく。最後にアガサが犠牲になりドラキュラと共に海の藻屑となる。そして最終話は、123年後の現代のイギリス。棺と共に海の底に沈んだドラキュラはよみがえり、SNSが普及した現代でアガサのひ孫で科学者のゾーイと対決するが、癌に侵されたゾーイの血を飲みドラキュラは死ぬ。
著者がこのドラマで注目する点はふたつある。ひとつは十字架や太陽の光がドラキュラに効かなかったこと。ドラキュラ自身もこれには驚く。ドラキュラは自ら伝説を信じこんでいただけだったことが明らかになる。もうひとつは、不死のドラキュラが死に興味を示すことだ。最終話でドラキュラはすべてをやりつくしてしまい、まだ体験したことのない死に惹かれ、リアルな世界に飽き、死にあこがれる女性を襲う。結局ドラキュラは死ぬが、著者は、死んでもまたよみがえってくると思わずにいられないと述べる。
■所感・評価
吸血鬼、すなわちヴァンパイアを知らない人はいない。だが、実際のところ、トランシルバニアの伝説や、十字架や太陽の光を怖がる昔のドラキュラ映画のイメージぐらいで、今、映画やドラマ、コミックの世界でヴァンパイアがどう描かれているかについては知らないのではないか。本書を読んで、こんなに多彩なヴァンパイア作品が作られていたのかと思い知らされた。ホラー映画ファンや吸血鬼好きの方々にとっては願ってもない一冊だろうと思う。
では、本書の特徴や魅力はどういう点にあるだろうか。3つ挙げてみた。第1に作品の選択が絶妙である。ティーンエイジャーの恋愛映画『トワイライト~初恋~』やトム・クルーズとブラッド・ピット、アントニオ・バンデラスの共演で話題になった映画『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のような有名な作品にくわえ、女の子たちの同性愛を描く米国のテレビアニメ『アドベンチャー・タイム』や、失恋を引きずり愛に煮え切らない今時の若者を描いたコミック『吸血鬼』までバラエティに富む。また、各章で名前を挙げた主な作品以外にも、キューバの映画『ハバナのヴァンパイア』(1985年)やコミック『ヴァンプス(Vamps)』(1994年)といったマニアックな作品も紹介している。
第2の魅力は、最近注目されているポップカルチャーを分析する方法が使われていることである。本書は、80年代以降の映画やドラマ、コミックの主人公であるヴァンパイアを分析し、どのような社会変化から新たなヴァンパイア像が生まれたのかを見ていく。実は、本書のように映画や本の登場人物の行動(いわゆるポップカルチャー)を分析し、社会的意識の構造を見ようとする分析方法は、最近の日本のジェンダーやフェミニズムに関する学問的分野で注目されている[3]。本書では、こうした新しい社会学的な分析方法が使われているため、読む側としてはヴァンパイアがどう分析されているか好奇心がそそられる。ただし、著者は学問的な本ではなく感情の赴くままに書いたと言っている。
最後に本書が共感を持って読めるのは、書き手として常に公正であろうとする著者の姿勢によってである。私たちは集団で生きているがゆえに、知らず知らずのうちに、良いとか悪いとか、強いとか弱いとか、また早いとか遅いとか、優劣の評価にとらわれる傾向がある。しかし著者はあえて、「良いとは何か。」あるいは「弱いより強い方がいいのか。」と問いかける。また、同性愛者についても「(ホモセクシュアルを)理解できなくても、その行為を隣人が喜んでいるなら、それは民主主義の柱のひとつと言える。」と擁護する。他人を尊重しようとする著者の姿勢は、読む側に安心感を与えてくれる。
ところで、著者がスペイン人ということで何か特徴があるだろうか。これはもし特に取り上げるとすれば、著者の熱量の高さだろうか。スペインは70年代後半までフランコ独裁政権の下にあったため、他のヨーロッパ諸国と違い、突然ポップカルチャーが入ってきた。ヴァンパイアだけでなくポップカルチャーを熱く語る著者の原動力は、その時の驚きと刺激からだったようだ。
この現代の個性的なヴァンパイアたちを熱く紹介する本書は、日本で受け入れられるだろうか。日本での吸血鬼人気は、過去には漫画『ポーの一族』や『ジョジョの奇妙な冒険』、さらに『鬼滅の刃』の人気でも明らかであるが、今年2022年だけでもブラム・ストーカー著『吸血鬼ドラキュラ』以前の吸血鬼作品を集めた、夏来健次、平戸懐古編集翻訳『吸血鬼ラスヴァン: 英米古典吸血鬼小説傑作集』(東京創元社、2022年)やグレイディ・ヘンドリクス著、原島文世訳『吸血鬼ハンターたちの読書会』(早川書房、2022年)が出版されており[4]、これらの作品はいずれもアマゾンで5つ星という高評価である。そのためヴァンパイアを扱う本書を受け入れる土壌は十分にあると思う。くわえて既に述べたように、日本では、本書のようにポップカルチャーを分析する方法が注目されているため、ポップカルチャーやサブカルチャーの愛好者、及び社会学的分析に関心のある読者の関心を得られるのは間違いない。
また、本書で紹介されている映画やドラマは今やネットフリックスやYouTubeなどネット環境で気軽に見ることができる。本書を読みながら実際の作品に触れればさらなるヴァンパイア通になれることは間違いない。その意味でも本書は最高のヴァンパイアガイドと言えよう。
【著者について】
1971年サラゴサ生まれのジャーナリストで作家。吸血鬼になることを夢見てきたが、生計を立てるため、デジタルコミュニケーションの作家として新聞(エルコメルシオ紙、エルディアモンタニェス紙)、雑誌(ヴァニティフェア)、ラジオやテレビ(コペ、アンテナ3)で仕事をしてきた。作家として熱中できるテーマならどんな分野でも執筆することを信条にしている。これまでに上梓したエッセイは『El gabinismo contado a nuestros hijos(子供たちに語るガビニズム)』(政治)、『La puta gastronomía(いまいましい美食)』(ガストロノミー)、『 Culo veo, culo quiero(見るもの全てが欲しいもの)』(消費)。なお、著者はTwitter(@davidrem)やInstagram(@davidremartinez)で日々発信している。
■試訳(p.255-256)
第10章 アガサ
ついにドラキュラは命の意味を理解し、本当に不死になる。
恐れや死、血、神は本来の意味を失ってしまった。女たちはマチスモを脇に追いやり、ヴァンパイアに他の楽しみを教え、ヴァンパイアは冗談を言ったり友情を育んだり、はたまた人のために良いことをしたり、愛し合ったりを経験し、そのうえ二重性や矛盾も受け入れられ、人間みたいになった。私たちの友人が半世紀もの間たどってきた道は魅力的で、私たち自身もやれそうな人生の修練の場であった。というのも私たち人間は、不満がたまりにたまった浮き袋のごとく世の中をシニカルな目で見ながら年を取っていき、徐々に干乾びて反発ばかりするようになる。斜に構えてみたってイライラは募るばかりなのに。世の中がヴァンパイア化するにつれて、つまり人間の周りが劣悪な環境になるにつれて、ヴァンパイアは私たちがこの劣悪な世の中を乗り越えるために代替案を提示してきてくれた。でもこれで終わりじゃない。ヴァンパイアにはまだ最後のステージが残っているのだ。それは命には限りがあるということを受け入れること。つまり、死ぬ可能性があることを受け入れることだ。
特別なヴァンパイアのなかには、この最後の一歩、つまり死を受け入れたものもいたが――マーセリン[5]、そんな遠くに行かないで――他のヴァンパイアもできたのだから、ヴァンパイアの王様のドラキュラだってできるはず。もしドラキュラで古い吸血鬼の時代が始まったなら、ドラキュラはまた新しいヴァンパイアの時代を輝かしいものにしていくだろう。ドラキュラは真っ黒な円を一巡して輝かしい未来のために新たなスタート地点についたのだ。死は私たちが感じる恐れのなかで最も恐ろしいものであり、避けられないからこそ最も理不尽なものでもある。避けられないんだから自分たちではどうにもならないのだ。同じように、死は私たちにとって最大の挑戦でもある。死に立ち向かうことは命に立ち向かうことだ。あなたは朝何のために起きるの? ただ黙って次の日が来るのを待っているだけじゃないでしょうね?
1世紀以上の間、私たちはドラキュラの歴史を見てきたが、ドラキュラがどう考え、どう感じ、どう生きてきたかについてほとんどわからないままだ。小説のなかのドラキュラはほとんど話すことはないし、ドラキュラについて語られる話は怖いものばかりだ。デニムやレオタード、絵文字の時代に時代遅れのマントを羽織って気取っているけど、ミステリアスで人を巧みにたらしこむため、これまで私たちの間でどうにか生き延びてきた。トランシルバニアのドラキュラは自分のイメージを他のものに変えたり、進化させたりしながら何十もの映画や劇、物語やコミックを世の中に出し、どれも私たちを楽しませてくれている。本書ではそのいくつかを見てきたが、21世紀にはまだどれも定着してはいない。まさにその理由は、本当の復活として人生を受け入れていないせいだろう。もしドラキュラが私たちを映し出す最高のものになりたいのなら、生きて死を受け入れなければならない。また、命に限りがあることを認め、不死をあきらめなければならない。でも、そもそも吸血鬼って不死で居続けられるんだっけ?
[1] Garth Ennis, Steve Dillon “Preacher” Vertigo, 2013. 邦訳はまだない。米国では2016年にテレビドラマ化され、日本ではAmazonプライム・ビデオ、AXNで配信。DVDレンタルでも視聴できる。
[2] 現在出版されているのは、Joann Sfar “Vampir”, Fulgencio Pimentel S.L., 2013. 邦訳はまだない。同著者のヴァンパイアの作品で邦訳されているのは、ジョアン・スファール、関澄かおる訳『プチバンピ学校へ行く』飛鳥新社、2005年である。
[3] 社会学的な学問分野におけるポップカルチャーを使った分析については、河野真太郎著『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)に詳しい。
[4] ヴァンパイアを扱ったコミックについては、2021年に二式恭介著『ちゃんと吸えない吸血鬼ちゃん』(KADOKAWA、2021年)やぴゅあ著『吸血鬼と呼ばれたい』(KADOKAWA、2021年)が出版されている。
[5] 第7章のテレビアニメ『アドベンチャー・タイム』の登場人物、女ヴァンパイアのマーセリンのことである。
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