■概要
ガリシアの田舎町で暮らす3世代家族。フリアはジャーナリスト。離婚したばかりで、心機一転して人生を立て直すため、そして母親の面倒をみるため、マドリードを離れ息子のセバスと故郷のガリシアに戻ってきた。しかし、フリアにとって帰郷とは、秘密だらけの過去、30 年以上も前にさよならも言わずにいなくなった父親の失踪に向き合うことを意味していた。10 歳のセバスは祖母のルスをソー(*)だと思っている。なぜなら、彼女は片時もハンマーを手放さないからだ。たとえお菓子を靴下に隠そうが、物が二重に見えるまでワインを飲もうが、嘘ばかり言おうが、 セバスはルスが大好きだ。90 年代のガリシアの麻薬密売、介護の世界、真実の追求をテーマとする物語。
(*)アメリカンコミックのスーパーヒーロー。ハンマー「ムジョルニア」を奮い、雷と稲妻を自在に操る神。
■主な登場人物
ルス ガリシアの田舎町に住む女性80歳。片時もハンマーを手放さない。
フリア ルスの娘。ジャーナリスト。離婚したばかり。
セバス フリアの息子 10歳。
ダビッド セバスの親友。あだなはゲレーロ(戦士)。マーベル・コミックが好き。
ノア セバスの親友。もの知りで賢い女の子。ルービックキューブが得意。
■あらすじ
第1部 (P7~P144)
ガリシアの田舎町で暮らすルスはもうじき80歳。30年以上前に、夫マルティンは家を出たきり消息が知れない。ひとり娘のフリアはマドリードの大学を出て、ジャーナリストになり、結婚、出産したが、最近になって離婚し、孫のセバスを連れて実家に戻って来た。庭で花を育てたり、友だちとすごろくをしたり、自由気ままに暮らしていたルスの生活が一変する。孫のセバスはかわいいが、娘フリアに、食べ物や着るもののこと、預金がいくらあるか、薬をちゃんと飲んでいるか、など口うるさくコントロールされ、母娘は喧嘩ばかりしている。おまけに、ルスの頭の中では、母アニマラが事あるごとに口を出す。
10歳のセバスはルスが大好きだ。おばあちゃんは隣の家のグラジオラスにおしっこをしたり、たばこの吸い殻を放り投げたり――そのせいでお隣さんとは犬猿の仲だ――、大音量でテレビをつけて、画面の中の人に文句を言ったりする。なぜか、ハンマーを片時も離さない。頭がかなりいかれているおばあちゃんがいるっていうのはすごくかっこいい。新しい学校では友だちがふたりできた。スーパーヒーローコミックが大好きなダビッド(あだな:ゲレーロ)と、賢くて物知りな女の子ノア。3人は「アスガルト王国」ごっこに夢中になる。3人にとって、ルスは、魔法のハンマー「ムジョルニア」をもったスーパーヒーロー、アスガルトの戦士ソーだ。
フリアは、午前中は新聞社のオフィスで働き、午後は家でリモートワークをしている。ジャーナリストとして、ガリシアに戻ったからには書きたい記事があった。1980年代以降のガリシアにおける麻薬取引の変遷について。個人的には、母ルスに聞きたいことがある。さよならも言わずある日突然いなくなった父マルティンの失踪についての真実だ。父は、ヘロインブームのさなかに姿を消した。フリアは、父の失踪は麻薬と関係があるのではと疑う。ルスは娘フリアに、父親は母国アルゼンチンに行った、手紙が来ている、といつも言っていたが、手紙を見せてくれたことはなかった。納得のできる説明がないまま、母娘の溝はどんどん深くなっていく。
フリアは、友だちと電話で話していて、夫パブロが自分と別れたのは、夫より20歳も年下の同僚アナのせいだと知る。アナは家に遊びに来たこともある。すごく傷ついたが、親が子どもの前で泣いてはいけないと、気丈にふるまうフリア。
フランコ独裁が終わり民主化した当初、スペインには失業者があふれた。そんな中、密売ルートがあったガリシアの若者たちの間に、大麻が広まった。やがて覚醒剤、LSD、とエスカレートし、1980年代にはあっという間にヘロインが蔓延する。中毒者たちは、公園、カフェのトイレ、ビーチ、道端、所かまわず、ヘロインをレモン汁で溶かして注射した。やせこけた若者たちがゾンビのようにたむろし、過剰摂取やエイズで死んでいった。その一方で、麻薬密売人たちは豪邸に住み、高級車を乗り回していた。当時の資料を調べる中で、フリアは麻薬密売人の逮捕の瞬間をとらえた1枚の写真を見つける。ルシオ・リンコン、通称「ルシファー」。バル・セコで父親と一緒にいるのを見たことがある男だった。
セバス、ダビッド、ノアは、貯水池に釣りに行った時、鎌を持った男に追いかけられる。手足が極端に長く、のどにこぶがあって、うめくような声を出す。なんとか逃げたものの、人生で一番怖かった体験だった。あの男はソーの敵スーパーヴィランのゴア・ザ・ゴッドブッチャーに違いない。数日後、ルスが行方不明になる。セバスは、ルスがゴア・ザ・ゴッドブッチャーを懲らしめに行ったに違いないと直感する。だっておばあちゃんはソーなのだから。案の定、ルスは、ハンマー片手にその男のところに行っていた。もう二度と孫と友だちを脅かさないと約束させた帰り道、めまいがして気を失い、足も痛めて動けなくなり、山の中で一夜を過ごす。翌朝、警察と警察犬、住民たちによる大捜索が始まる一方で、セバス達3人もルス救出作戦を開始。貯水池に向かいながら「おばあちゃ~ん!」「ソー、どこ?」と叫ぶと、乾いた衝撃音が返ってきた。音のする方に走っていくと、おばあちゃんが手に持ったハンマーを石に打ち付けていた。額を怪我して血が出ている、唇は紫だ。セバスは携帯電話でフリアに連絡する。
第2部 (P146~P288)
ルスはヘリコプターで救出され、病院に搬送された。軽い脳卒中を起こし、片方の腕に力が入らず、歩行困難、捻挫もしていた。退院後ひとりでの留守番は難しく、ヘルパーを雇うことをルスも渋々承諾。フリアは少し肩の荷が下りる。
セバスたち3人は警察から表彰され、新聞にも載って、一躍有名に。これで悪童ディエゴ・プガのいじめは無くなるだろうと思いきや、逆にエスカレートする。リュックに溶けたチョコレートをべったり塗り付けられ、中にあった大事な父からの手紙が汚れて台無しになってしまい、落ち込むセバス。
フリアは、ルシオ・リンコン「ルシファー」の写真をルスに見せ、父マルティンとの関係を聞くが、ルスは相変わらず真相を語らない。バル・セコに行くと、先代の主人の妻ローラが話をしてくれた。1988年の冬の夜、「ルシファー」の手下がやって来てベッドからローラの夫を連れ去った。4日後、夫は死体となって山で発見された。右手の指が3本切り取られ、足にはファミリーの紋章が焼き付けられ、睾丸には硫酸を浴びせられたあとがあった。フリアの父マルティン・ノボアは、「ルシファー」の右腕だったが、金を持ち逃げしたと言う。フリアがバル・セコに行った話を聞いたルスは、フリアを屋根裏部屋に連れて行き、黒いトランクを開く。ペセタ紙幣の札束がぎっしり詰まっていた。9700万ペセタ。マルティンが「ルシファー」から盗んだお金、ヘロインのお金だ。1億ペセタあったが、フリアがマドリードの大学に行く費用として、300万ペセタ使ったと言う。ルスは大金を披露し得意顔。ユーロに変わって何年も経った今、ペセタはもう価値がない、紙切れに過ぎない事を知らないのだ。フリアは、ルスに内緒で1万ペセタの札束をひとつ持って警察に行き、33年前から家に隠されていた違法な金を見つけた、父マルティン・ノボアは行方不明で、母はこの件の被害者だと通報する。犯罪の証拠となるペセタ紙幣の押収のためにパトカーが出動し、フリアと警察が家につくと、ルスがペセタ紙幣を燃やしていた。ただの紙屑だと言われたから燃やしたのになぜ怒られているのか訳が分からないルス。
フリアは、元警察署長でかつて麻薬密売の捜査を指揮していたメルチョルを紹介される。フリアは、自分がマルティンの娘だということは伏せて、受刑中の「ルシファー」へのインタビューをしたいと希望するが、メルチョルは渋い顔をする。危険を冒してまでやる意味があるのかと。果たして、車に「焼け死ぬことになるぞ、性悪女!」と落書きされる。フリアのインタビューの提案に対する、「ルシファー」の返事だ。余計なことに首をつっこむなと言う警告だった。
煙草を切らしたルスが、庭で遊んでいるセバス、ダビッド、ノアに、隣人の庭に忍び込み煙草をひと箱盗んでほしいと頼む。言われた通りにして隣人に見つかり治安警察に捕まった3人は、隣の家に忍び込んだのは、ルスに頼まれたからだと白状するが、ルスは否定。おばあちゃんは嘘つきだとセバスは憤慨する。そこにちょうど、セバスの父パブロがマドリードからやってきて、久しぶりに父子で釣り旅行に出かける。ルスが行方不明になった話、学校でのいじめの話、ルスとフリアの喧嘩の話など聞きながら、パブロはフリアだけに養育を任せておいていいのかと疑問を感じ、月の半分をガリシアで過ごすことを考え始める。一方、フリアは学校に呼ばれて、セバスはマドリードから引っ越してきたばかりで、父親と500km離れて暮らしていること、認知症の祖母と暮らしていること、転校、友だちが変わったことなど、今難しい時期なので気を付けるように指導される。
ルスの80歳の誕生日。庭で突然機械の音がする。枯れてしまった植物が全て刈られ、庭は丸裸になった。これから、土を掘り起こして肥料をやり、新しい花を植えるという。フリアとセバスからの誕生日のサプライズだった。でもなぜか、そんなことはさせないと、ルスが機械にハンマーを振り下ろす。
セバスとパブロが父子で出かけた留守を利用して、フリアはまた、父マルティンのことをルスに尋ねる。「ルシファー」にインタビューを申し込んだら、車に落書きをされた話をし、落書きの写真を見せると、ルスはとうとう観念して真実を打ち明け始める。フリアはルスにスコップを渡され、言われるがままに庭の一点を掘りながら、ルスの話を聞く。マルティンは狂暴な男で、些細なことで妻のルスに暴力をふるった。さんまに塩をふってないと殴られたり、蹴られてあばら骨が1本折れたこともあるが、誰にも相談できなかった。ある日、べろべろに酔っぱらって帰って来て、フリアがおやすみのキスを嫌がったと、娘の髪をつかんで引きずりまわし、暴力をふるい、ブラウスを破った。悪魔の形相だった。ルスは娘を助けるため、恐怖と戦いながら治安警察に訴えてやると夫を脅迫し、なんとか娘への暴力をやめさせた。ルスは、娘フリアと自分はいつか殺されると思い、ソファーで眠り込んでしまった夫マルティンの頭を居間にあったハンマーで何度も殴って殺した、と言う。マルティンは、それからずっと、庭の奥深く、土の中で、絨毯にくるまれて眠っていたのだった。フリアは、ルスのハンマーを穴にほおりこみ、また土をかぶせた。
セバスが週末をパブロと過ごして戻ってみると、ルスのハンマーがなくなっていた。ルスはソーじゃなくなった。ルスとフリアが仲直りしたときいて、セバスはとてもうれしくなる。
フリアは新聞社をやめた。
■所感・評価
本書『光の衝撃Golpes de luz』のテーマは、介護、麻薬、家族の絆。ともすれば重くなるテーマを、著者レディシア・コスタスは、ワイルドさと優しさとユーモアにあふれる筆致で絶妙に描いた。原書で300ページ近い長編だが、一気に引き込まれる。
この物語で一番強烈な印象を残すのが80歳のルス。著者レディシア・コスタスの祖母ロサがモデルだという。たくさんの薬を常用し、抑うつ剤を庭に埋めたり、IH調理台に直接お皿を置いて爆発させたり、近所の人たちに悪態をついたり…。祖母の日常からヒントを得、そこにスーパーヒーローのキャラクター、ソーをからめ、ルスの人物像は、現代的でユーモラスに描かれている。タイトルの『光の衝撃Golpes de luz』は、強烈な個性を持つルス(スペイン語で光の意味)と、彼女が片時も離さないハンマーの衝撃を想起させる。
子ども、親、夫の親など、自分を頼る人を抱えている女性たち。自分の人生に加えて、介護、養育すべき人がいると、余裕がなくなる。自分のことが後回しになる。笑顔を忘れる。フリアも母ルスの介護、息子セバスの養育の悩みを抱えながら、気丈に頑張っている。日本もスペインに似て、世界一の長寿国で、男女共同参画社会とはいっても、家事、育児、親の介護は女性という雰囲気がまだまだあるのが実情。フリアの語りに共感を覚える日本の読者は多いだろう。
そして愛すべきキャラクター10歳のセバスが、親友ふたりと共に子どもの世界を子どもの視点で読者に見せてくれる。スーパーヒーローのソー、スーパーヴィランのゴア・ザ・ゴッドブッチャーなどの登場も楽しい。
3世代で一緒に暮らす、ルス、フリア、セバスの3人が交互に語り手になる構成なので、3人が共有する世界に、それぞれの立場になって入り込み、違う視点からアプローチできるのがいい。世代の違いを反映し、見事に語りわけた語り口には、著者の卓越した文学的才能が存分に発揮されている。それだけに、翻訳者にはその語り口の違いを日本語で訳し上げることが求められる。ルスが度々発する悪態は、日本にはののしりの言葉のバラエティが少ないので訳し分けに苦労するだろう。また、本書には、ガリシア語の単語や表現が頻繁に出てくるので、ガリシア語の知識がある翻訳者だと理想的。
もうひとつのテーマが、「麻薬」。麻薬ルートのヨーロッパへの入り口となった1980年代以降のガリシアを舞台に、麻薬シンジケートの残酷さを垣間見ることができる。
著者のレディシア・コスタスは、新聞のインタビューでこの小説を「蛍ととげを吐き出すように書いた」と語っている。物語を紡ぐ作業は、孤独で、真夜中に森の中で迷子になっているような気分になると言う。寒くて震えている時、暗闇の中に現れる蛍。小さな暖かい光を点滅させながらヒントを与えてくれる存在だったり、行き詰まった時その光の衝撃で突破口を開いてくれる存在だったり。この物語は著者が吐き出した大小たくさんのきらめく光(ルス)であふれている。
■著者について
1979年ガリシアのビゴ生まれ。ビゴ大学法学部卒。若い頃から執筆を始め、2000年に小説”Unha estrella no vento” (風の中の星)でデビュー。以来、多数の児童文学・YA小説を書き、作品は、韓国語、イタリア語、ペルシャ語など様々な言語に翻訳されている。その並外れた文才により、”Escarlatina, la cocinera cadáver”(がいこつシェフ、エスカルラティーナ、2014)は、メルリン児童文学賞、2015年国民児童文学賞、2016年IBBYオナーリスト賞を受賞。冒険小説 “Verne y la vida secreta de las mujeres planta”(ヴェルヌと植物女の秘密の⽣活)(2018年当サイトおすすめ書籍)で2015年ラサリーリョ賞創作部門を受賞。同じ賞を2017年 “La balada de los unicornios”(ユニコーンたちのバラード)で再受賞。2019年、初めての大人向け小説“Infamia”(汚名)(2020年当サイト紹介)で、現代スペイン小説界で最も活躍する女性作家のひとりとしての地位を不動のものにした。本書“Golpes de luz”(光の衝撃)は待望の新作小説。
■試訳 (P153~P156)父親のことを聞き出そうとするフリアとルスの会話――
「リンコンは麻薬密売人だった。コロンビア人。今は刑務所の中」
「キャラメル売りには見えないね」母さんは平然と答えた。
「父さんとはどんな関係?」
「共通の友だちがいて、仲間内でつきあっていたね。その何とかいう男はコロンビアからやってきて、2年くらいアロウサ島の豪邸に住んでいた。おまえも一度行ったことがあるよ。でもまだ小さかったから覚えてないかもしれないね。リンコンはよくビゴに来ていた。私らはあの男のことをリンコンとは呼んでなかった。ルシファーって呼んでた。お前の父さんがそのあだ名をつけたんだよ。それからみんなそう呼ぶようになった」
私はガリシアの麻薬商人全員の氏名、あだ名、妻の名前、みんな知っている。判決で何年の刑に処されたか、何年刑務所に入っていたか、誰がまだ塀の中で、誰が出てきたかも全部そらで言える。彼らについて記事を書いたのも一度じゃないし、「ネコラ作戦」の裁判の流れを時系列で何度も調べた。でも、この男については顔しか覚えていない。
「でもどうしてルシファーって呼ばれてたの?」
「すべてを燃やしたからだよ。ラ・ラの家の火事を覚えていないのかい?」母さんは真顔で言った。
母さんが言う火事のことはぼんやり覚えている。ラ・ラというのは、ラモーナのことだ。私が6歳か7歳のころ近くに引っ越してきた。私たちは、彼女の家には近づいてはいけない、孫たちと遊んでもいけないときつく言われていた。彼女が麻薬を売っていたから。私たち子どももみんな、そのことを知っていた。彼女の家の玄関には、自分の分を受け取ろうと、若者が四六時中長い列を作っていた。他にも近所の石塀を使って商売をしていた。壁のあちこちに穴をあけて、ラ・ラの娘たちがそこに麻薬を押し込み、あとで、麻薬中毒者たちが麻薬を取りそこにお金を残した。誰も麻薬にもお金にも手を付けようとはしなかった。あのお金は毒されていた。ヘロインに……。一度、道の真ん中で注射を打ったばかりの男の子の上を飛び越えなくちゃいけなかったことがある。すごく怖かった。今でも覚えている。だって、最初、死んでいると思ったから。でもあとで、地面にレモンと注射針が見えて、ヘロインを打ったんだとわかった。
「でも、ラ・ラの家はストーブのせいで焼けちゃったんじゃないの?」と私。
「ラ・ラの家が焼けたのは、ルシファーが自分の手を通さない麻薬を売ることを許さなかったからだよ。あの女は、突っ込むべきところじゃないところに首を突っ込んだんだよ。もし男だったら、別のやり方があったかもしれない。何度も警告したのに、彼女はそれを無視したから家を焼かれちゃったのさ」
「家の中に人がいるのにそのまま火をつけたの? 小さな子どもも住んでいたよね!」
「子どもたちが学校に行っている間にやった。そういう配慮はあったんだね。ラ・ラが叫びながら家から出て来て、近所の私たちに助けを求めた。もう動転していて、気が狂っているように見えた。誰も彼女を助けなかった。隣の家の奥さんは、ホースが届かないと言い訳して、涙をこらえながら家が焼けるのを見ていた。実のところ、あの火事で、みんな内心ではほっとした。しょっちゅう大きな問題を起こしていたからね。治安警察官を銃で撃った逃亡者をかくまったときのことを覚えてない?」
「武装警官に取り囲まれた彼女の家とヘリコプター、覚えてる」
「そうなんだよ。あの女がどこから来たのか私はよく知らない。ある日突然引っ越してきて、3、4年後に、引っ越していった。彼女が近所にいるっていうのは危険だった」
「じゃ、ルシファーはどうなの?」
母はため息をひとつついた。
「おまえは新聞記者だろう。調べればいい。ルシファーの奥さんに話を聞けば? 今でもアロウサに住んでいるから。お前が大好きなインタビューとやらをしなよ。あの家は何度もテレビに出た。見つけるのは簡単さ。お城みたいにふたつの塔がある。ルシファーの商売について聞きたいなら、私より彼女の方が詳しいよ」
「でも、母さんが知っていることを私に話してくれたら、ずっと簡単じゃない。私は父さんとルシファーとの関係が知りたいだけ。私、そんな大変なこと頼んでる?」
なかなか返事がない。弁解を考えているのだろうと思ったが、そうじゃなかった。今回は違う。顎が震えている。目に涙が浮かんでいる。ハンカチを取り出して涙を拭く母。
「家の中に入りたいから手を貸しておくれ。さあ。ちょっとめまいがする。いろんな思いがあふれて、この老いぼればあさんにはきついよ」ルスは、か細い声で言った。雪のように顔面蒼白だ。私は母さんが立ち上がるのを助けて、ゆっくりと家の方に向かった。
「大丈夫?」私はきいた。
「大丈夫。でも、私が死んだら灰はあのマグノリアの木の根元にまくのを忘れないでおくれよ。約束だよ」私の目をまっすぐ見ていった。
「わかっているよ、母さん、約束する」と私は請け負った。
私は敗北感に襲われながら、母さんの歩調に合わせて付き添っていった。負けを認めよう。母さんは話すことを拒んでいるだけじゃない。傷つくんだ。だったら、戦法を一から練り直すしかない。全ての情報の下に、そのぬかるみの下に、父さんを見つけられるに違いない。父さんの青い目、大きな手、泥、土、砂で汚れた長靴が見える。納得できる答えを見つけるまで私はあきらめない。
今でこそ海外からも簡単に本が買えたり、電子書籍で気軽に 洋書が楽しめる時代になりましたが、数十...
さらに読む
セルバンテスの次に世界で多く読まれている スペイン人作家といわれるカルロス・ルイ ス・サフォン。彼の『精霊たちの迷宮』の邦 訳が集英社文庫から出版された今...
さらに読む
ジャンル