■概要
本書は、国を問わず現代社会で多くの人を悩ます不眠をテーマにしたエッセイで、不眠とともに生きてきた著者の個人的な体験にとどまらず、同じような境遇の友人たちのエピソードや社会学者のコメント、さらには不眠に関して書かれた文学作品の引用を豊富に散りばめた、ユニークな文章群となっている。その構成は、不眠に悩む人にとって一番長い時間である「夜」、不眠の影響を大きく受ける「日中」の章をメインとして、眠れない間に著者自身が感じ、考えてきたことの語りに加え、不眠という時間、不眠とともに生きる人生を哲学的に、そしてユーモラスに考察している。不眠を解消するための解決策ではなく、これからも不眠を自分の一部と捉え、ともに生き続けるために、自分との向き合い方を語り、ひいては一つの生き方を提示する作品。
■目次 ※太字は各章のタイトル(その下は各節のタイトル)
Ⅰ. さあ、眠ろう
Ⅱ. 夜
むかしむかし、あるところに不眠が/書き換えられる、ゆっくりで過活動な時間/悪い身体/孤独とツレたち/苦悩に満ちた夜/羊を数えて/ベッドのその向こうに
Ⅲ. 日中
計算と、注意と、いらだちと/疲労困憊の労働者たち/職業による不眠/子育てと不眠/不眠産業/拒絶された幸福/日の名残り、私たちの名残り/睡眠に抗する作家たち
Ⅳ. 疲れた者たち
■内容 各章の主な概要は次のとおり(特に興味深いと思われる節の内容を抜粋)。
Ⅰ.さあ、眠ろう
これまで不眠に苦しんできた著者は、本書のタイトルになっている表現「dormir mal=うまく眠れない」を引き合いに、不眠の人たちは眠れないことによって身体への悪影響だけでなく、気持ちの面でも毎晩課せられる試験に失敗しているような挫折感に苛まれていると話す。睡眠がいかに大事かを説く専門書や、不眠の描き方に傷つけられる文学作品とは違うアプローチで、自らの不眠、個人的な経験を示しながら、不眠に苛まれる人に寄り添いたいという著者の気持ち、本書の主旨が語られる。
Ⅱ. 眠れない夜
著者は自らの実体験から、眠りにつけない様子を、言葉が溢れ出ては消えたり、潜水艦の浮き沈みのような感覚だったり…と様々に表現する。全ての生物、鳥や哺乳類、昆虫に至るまで眠ることができることを考えると、眠れない人の挫折感は大きい。睡眠に至る体内プロセスはかなり解明が進んでいるが、睡眠は集中力や代謝、記憶や免疫システムにとって重要であるだけでなく、その不足はほぼ全ての臓器に悪影響を与えることから、不眠に悩む者は敢えて詳しいことを学ばないようにしているところがあるという。いつ頃から自分が眠れないと認識したのか。著者は子どもの時から眠れず、両親が部屋から去った後も読書を続けたり、遅くに帰ってきた父親と夜中まで話したりしたという思い出を語り、眠れないことは才能ではなく、欠陥だということに気づいていく過程を綴る。
<むかしむかし、あるところに不眠が>
睡眠に関する研究者たちの考察を基に、不眠の歴史を語る。人類が生き延びてきたのは、みんなが眠る夜に、外部の危険から身を守るために起きていた不眠の者がいたおかげではないか。彼らが人類の生き残りを支えたともいえる。しかし人間の進化の中で、かつての屈強の戦士が現代ではスポーツのスター選手になったといえる一方、かつては寝ずの番で仲間を守った見張り役は現代では全く役に立たない。寝ずの番が不要の現代に、眠れない者ができることはなく、取り残された存在だと自嘲する。また、睡眠という生理的な行為が、みんな同じような時間(夜)に行う社会的な行為とみなされるようになった面もあり、眠れない者に「眠るべきときに眠れない」という懸念やストレスを与えるようになった。この意味で、衣服や食事、育児の歴史と同じように、睡眠の歴史を研究することは、社会習慣の進化を知るうえで有益だとする学者もいる。また、昔の人間がどのくらい眠っていたのか、不眠がなかったのかということについては、残っている統計はあてにならず、正確にはわからない部分がある。これでも人類は、過去よりも眠れているかもしれないのだ。
<書き換えられる、ゆっくりで過活動な時間>
電気を消す不眠者によく起こるのは、走馬灯のような記憶だ。人は日中の様々な出来事を記憶に落とすために眠るが、眠れない者は記憶がなくなる前にもう一度見たいのだ。そしてSNSに投稿する記事のように都合よく修正を試みる。しかし翌朝、現実は何も変わっていない。数多くの本や映画が、後悔や懸念に苛まれて眠れない人を描くが、実際に眠れない人に起きているのは特に理由もなく思考が舞い降り続け、浮かんでは消える花火のようであるという。眠れないことに気づくと、時間が敵に思えてくる。時間を有効に使わねばならない、何もしないで過ごすなんてあり得ないという現代の強迫観念が、眠ろうとする者を一層追い込んでいく。
<孤独とツレたち>
不眠を抱える者の夜は孤独で、自分の体と思考があるだけの、砂漠の孤島になっているような心境。孤独を和らげようと思考が展開していく様子は数々の文学作品にも登場する。隣にぐっすり眠る人がいれば、その孤独はさらに増す。女性は男性の約1.4倍不眠を抱える人が多いとのデータもあるが、著者がこれまで付き合ってきたパートナーは例外なくよく眠れる人たちであった。著者の今の妻もまさに気持ちがいいほどよく眠れる人で、暗闇の中で眠れずにジタバタしても全く気にする人ではないところが、関係がうまくいっている秘訣だという。記録によれば、西欧で最も早くに発展してきた一国であるフランスでさえ、18世紀の時点で75%位以上の家庭には寝室は一つしかなく、トゥレーヌ地方の70%以上の家庭が30-40㎡の居室だったとのことで、ほとんどの家族が「雑魚寝」状態であり、家族の中には現代の不眠症と同様に眠れなかった者がいたに違いない。また、不眠には遺伝的な要素があることも示されている。著者は自分の母親も不眠症であることに最近気づいたが、母は嘆くでもなく不眠を受け入れ、不眠に抗わず過ごすようになっていた。他の親せきや知人にも不眠症を抱える者が多く、彼らのことを考えて慰めが得られるわけではないが、真夜中に衛星写真を撮ったなら、点在する世界中の不眠者の孤独な光が輝いているのではと想像する。
<苦悩に満ちた夜>
不眠の人は夜を穏やかに迎えることが難しく、ストレスを感じて、脳の中では過去と未来への想いへのループが始まる。そして、両親の健康は、仕事の状況は、子どもたちの態度は、自分たちはどこに向かっているか……といった問いが、最悪な回答にさらされているというような悲観に襲われる。視野や思考が狭くなり、追い込まれる気持ちになっていく。不思議なことに、二度と眠れないのではないかという恐怖に苛まれることはあまりない。実際には「致死性家族性不眠症」という進行性の不眠の病気があり、治療法はなく、患者は発症後、一年以内には亡くなってしまうという。夜への不安は、歴史的に振り返っても実際に奇襲や犯罪などが多発する時間帯であったことに加え、超自然現象が見られたことにも関わっている。著者は、子どもの頃に見たホラー映画の記憶が睡眠の妨げにつながったと感じている。18から30歳までの人の8割近くが夜に何らかの恐怖を持っているとする統計もある。キリスト教を始め、様々な宗教でも、夜は死や恐怖と結びつける認識がなされ、また夜を徹して祈る、神を探す時間だとすることなども、夜という時間帯を乗り越えることに意味を与えている。
<羊を数えて>
眠れないときに羊の数を数えるという言い伝えは有名だが、眠れない者たちはありとあらゆる方法を試し、失望を味わう。著者が試した様々な手法の中で、マインドフルネスのワークショップの詳細や、眠るために友人が想像するオリジナルな方法が示される(いずれも著者には効果がなかったが、興味深い内容となっている。)
<ベッドの向こう側>
眠れない夜には、家の家具や食器の様子も違って見える。眠れない夜に読書が進むという面もあるが、その読書は自ら選んだのではなく、強いられた悲しい行為だ。約1世紀前、文明の発達により、多くの専門家は不眠症が大流行すると警告した。特に電気の発達は人々の生活を大きく変え、眠るべき夜に昼間の活動を持ち込むことになるとされた。しかし研究によると、現代でも原始的な生活をしている部族と西洋の文明化した社会に住む人の睡眠時間に大差はないという。専門家によれば、人のリズムにも先天的な傾向があり、「ヒバリ型」と「ミミズク型」がいるという。世の中の就業時間はヒバリ型に寄せられているが、ミミズク型の人は真夜中が一番冴える。作家の仕事では、ミミズクの時間に合わせて仕事がすることができ、そうするといつもの挫折感を感じず、充実感を以って朝を迎えることもできる。
Ⅲ.日中
本当の苦しみは眠れない日の翌日だ。眠りで癒されるはずの疲労が、休息なく連続する。
<計算と、注意と、いらだちと>
不眠者は朝起きてすぐに何時間眠れたかを計算し、自分の不眠の状態を探る。そして様々な「警報」が鳴らされる。睡眠不足は食欲を抑えるホルモンの分泌を抑え、肥満を誘発するほか、スペインでは約10%の交通事故が寝不足に起因すると言われるように、車の運転に対する懸念もある。子どもや若者が大人の一日の時間にフィットできないように、眠れない者は、自らが成熟していない、成長できない半人前の大人のように感じる。寝不足はまた、感情のコントロールにも悪影響を及ぼし、イラつきの原因ともなる。そして当たり散らしたりした後に来る後悔は激しい。
<疲労困憊の労働者たち>
不眠が仕事に与える悪影響を、当事者は過小評価する傾向があり、それによってさらに状況が悪化するとともに、自分が周りにどのようにみられているかについても被害妄想が進んでしまう。アメリカの調査によれば、不眠症の人はより収入が少なく、素行にも問題ありとされている。一方で、ナポレオン、ゴッホ、サッチャー、マドンナ、クリントン、メルケルなど、不眠症だが活躍している有名人も多くいる。仕事と睡眠の関係を考察すると、産業社会以降、労働者の終了時間からの逆算で理想の睡眠時間が決められたところがある。ドン・キホーテの記述によれば、かつては睡眠の時間が二つに分かれていたことがわかり、現在、常識とされている睡眠時間も、人類の歴史上では、比較的最近に決められたことがわかる。著者は、眠れず一番大変だった、27歳のときに新しい職場に来た時のことを回想し、眠れぬままに仕事に行き、周囲の視線を気にしていた日々、そこで感じていたことを語る。
<子育てと不眠>
子育てにつきものの不眠。どんなに健康に眠っていた人でも、親になって不眠の辛さに気づく。ただでさえ睡眠の問題を抱えていた著者も、子どもが生まれたときの睡眠への不安は大きかった。しかし通常の不眠と、育児の際の不眠には大きな違いがあった。持て余す時間の中で眠れない時間と、育児の間の限られた細切れの時間での不眠。著者の父親は後者を「兵士の睡眠(=いつでもどこでも可能な時に眠る)」と評したとのことで、不眠と戦場との比較がユーモラスに語られる。
<不眠産業>
不眠による現代の疲れを癒すために最も活用されているコーヒー。不眠に悩む者は、コーヒーで頭が完全にスッキリすることはなく、飲めば飲むほど身体に悪い影響があることを知っている。眠気を取ろうとする商売が発展する一方、よい睡眠を取ることがパフォーマンスや容姿の向上につながるといったCMや、睡眠サプリの例もある。睡眠の改善はローマ時代からの課題だったが、よい睡眠への欲望をこれほどあからさまに商売に結び付けようとしている時代はない。アメリカには睡眠が生産性を上げるという認識の下、7時間以上の睡眠時間を取った従業員に報償を与える大企業もあり、資本主義の発展の中で、睡眠に対する認識が変化しているという。著者の不眠症の友人たちはこのような「不眠産業」に必ずいくらかのお金をかけているが、十分な効果を得られているケースは少ない。著者は2010年からメラトニンを、サプリメントと認識されている国からオンラインで購入しているが、自国では処方箋が必要で、医師に止められるのを恐れて病院には行っていない。ネット検索で長期間の服用も恐らく問題はない、という文章を見つけて安堵するものの、本当のことはわからず不安は抱えたままという自身の葛藤を語る。
<日の名残りと私たちの名残り>
眠れない者たちが、もし眠れたら…と想像し哲学する。もし眠れたら、違う人間になるのか。眠れないことによって得られるものがあるとしたら…? 著者自身は、自分の考えをオーストラリアの詩人の作品になぞらえて、様々な場面と自分とをつなぎ合わせる糸のようなものだと表現する。そして2020年からのコロナ禍は、多くの人に不眠を助長することになった。もちろん不眠はコロナウイルス自体によってもたらされた健康被害に及ぶものではないが、不安な状況が多くの不眠症をもたらし、人々の精神面に悪影響を及ぼしていることは事実である。コロナ禍で不眠の著者自身が感じた、生死をさまよう人とそれを支える人たちへの連帯の気持ちが記されている。
Ⅳ. 疲れた者たち
著者は、不眠を現代社会の発展、過度な産業化が招いたものだと単純化するつもりはない。当事者としては、不眠は時に苦しく、他人への不機嫌な態度を正当化できるくらい辛いことだが、不眠のまま生きることもまた人間の一つの在り方なのだ。不眠によって、他の人が見たり感じたりできないことを見て、感じられるという意味で、不眠を否定することは、自分の大事な一面を否定することになるのだ。不眠に悩む他者を知れば、自らをもまた発見することになる。著者の連帯が示される。
■所感・評価
「不眠に悩む人」というより、「不眠とともに生きる人」の手記といえよう。日本国内にも多く存在すると思われる、よく眠れないが病院に行くことには抵抗があるという人たちにとっては非常に身近に感じられる作品であると思われる。著者がコメントするように、本書は睡眠不足を解消するためのヒントになるのではなく、不眠と付き合っていくことをある程度覚悟している人への考え方のヒント、そういう人の人生へのエール、という性格が強い。文体は軽妙で読みやすく、また著者自身の体験が具体的かつ赤裸々に、ユーモアを交えて語られていることは魅力であり、スペインの評者のコメントのように「不眠者のバイブル」になり得るが、引用される作家の作品や言葉がスペイン、フランス、英語圏の作家が中心である点は、日本の読者には訳注や訳し方に工夫が必要になると思われる。日本で類似の書といえば、椎名誠氏の『ぼくは眠れない』(2014年、新潮新書)だろうか。
最終章の文章は、不眠であることも一つの生き方、人間の一つの側面であるという主旨であり、多様な人々、多様な生き方を認める重要性が叫ばれる昨今においても、これまで必ずしも表に出てこなかった声の一つを代弁しているという作品といえるかもしれない。
■試訳(冒頭部分、13-14ページ)
いつもうまく眠れない。不眠は私の人生の土台の一つであり、人生に一貫性と連続性を授けてきた。これまで3か国7都市、計15の住居で暮らしてきたが、そのすべてで眠れなかった。いろいろな仕事についてきたが、どの仕事も睡眠不足のせいでうまくいかなかった。付き合った女性がいたが、彼女たちと一緒でもいつも不眠だった。薬を飲んだり、専門的なサイトにアクセスしたり、マインドフルネスのワークショップにも参加した。不眠は、変わらない身分証みたいなものだ。本章の冒頭に書いたビリー・コリンズの言葉のように、不眠、それは私の最悪の敵であると同時に、一番古い友人だった。
しかし、「ドルミール マル(うまく眠れない)」とはどういう意味だろう? 一応、それはインソムニオ(不眠症)を表す一つの言い方ではある。本書が医療や科学の知識を普及させるための本であれば、インソムニオというべきなのだろう。専門家はそれを、眠る機会と必要性があるにもかかわらず、十分に眠れることが不能であること、と定義する。その不能は長引いて、私たちの日常生活に影響を及ぼす。しかしこの定義には、非常に異なった現実と経験が含まれる。急性不眠、または慢性不眠症(私が本能的に本物の不眠症と思うもの)は人間の生活を壊しうる。何週間もの間、目をつむることもできない状態だ。仕事に支障をきたし、深刻な精神不安定をもたらすもので、治療を必要とする。
一方で、一度でも自分のことを《不眠》だと認識している私たちの多くは、それなりに健康で、生産的な存在である。所得の申告はするし、SNSのグループにも入るし、植物に水だってやる。ただ夜にほとんど眠れず、日中は疲れがちであるというだけである。灯りを消して、1時間、2時間、3時間くらいは眠りにつけなかったり、特に原因もなく、目覚ましが鳴る相当前に目が覚めたり、昼寝をしようとして40分くらいの不毛な時間を過ごしたり。ある晩は6時間眠り、翌日は4時間半、次は5時間、その後はまた4時間…という具合だ。もちろん時々ではあるが、よくわからないまま輝かしく7時間も一気に眠れてしまうことだってある。多くは、睡眠不足と戦うために専門家を探すようなことはしない。ネットで見つけられる助言や処方箋の要らないサプリメントの方を好む。あるいは、また眠れるいい夜が来ることをただただ願うばかりだ。
だからといって、睡眠不足に悪影響を受けていないわけではない。その逆だ。不眠は、曇ったガラスのように、人生全体の視界をぼんやりとさせているのだ。
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