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縫い目のあいだの時間
著者:マリーア・ドゥエニャス María Dueñas
ジャンル:小説(歴史サスペンス)
出版社:テーマス・デ・オイ Temas de Hoy 640頁
レポート作成:リベル
登場人物
シーラ・キローガ:服飾デザイナー
イグナシオ・モンテス:シーラの婚約者
ラミロ・アリーバス:タイプライター代理店の店主
アルバラード・ゴンサロ:シーラの父
カルデラリア・バリェステロス:下宿屋の女主人
フアン・ルイス・ベイグベデル:スペイン領モロッコ高等弁務官
ロザリンダ・フォックス:イギリス人。ベイグベデルの愛人
セラーノ・スニェル:フランコ将軍の義弟
マーカス・ローガン:イギリス人新聞記者
アラン・ヒルガース:在スペインイギリス大使館付海軍武官
マヌエル・ダ・シルバ:リスボンの実業家
あらすじ
第1部
ほんの些細なことで人生は180度変わる。私の場合、きっかけはタイプライターだった。
私、シーラ・キローガは1911年の夏にマドリードで生まれた。父は知らない。母は、マドリード中に名を馳せる洋裁店でお針子として働き、私も12歳のときからそこで修行を始めた。20歳のときにイグナシオという2歳年上の男性と出会った
4年後、役所勤めを始めた彼と婚約。しかし、左派による第二共和政府が樹立されて以来、貴族たちが姿を消し、働いていた店は経営が悪化、ついに閉店した。私はタイプの練習をすることにした。タイプライターの店で出会ったのが、店長のラミロだった。彼は一言で言えば肉食獣であり、“目的”を知る男だった。ラミロの巧みな誘惑に簡単に参った私は、彼の虜となり、イグナシオと別れてラミロと同棲を始めた。
そんなある日、突然父を名乗る男から、会いたいと連絡があった。父アルバラード・ゴンサロは裕福な家柄で、家にドレスメーカーとして出入りしていた母ドロレスと結ばれたが、母はみずから身を引いたのだという。父は別の女性と結婚したが、やがてその妻も去り、息子たちとも疎遠になっていた。「マドリードはやがて戦場と化す。私もいつ殺されるかわからない。すぐに国外に出ろ。これはせめてもの償いだ」父はそう言うと、私に15万ペセタと宝石、親子関係を証明する書類を渡した。そんな大金、どうしたらいいのだろう。私はラミロに相談した。「モロッコのタンジールに行って君名義で会社を作り、ヨーロッパにタイプライターを売ろう」私たちはその計画に夢中になった。
1936年3月、タンジールに向かった。如才ないラミロはモロッコの空気にすぐなじんだが、私はホテルにこもりがちだった。やがて私が妊娠を告げると、ラミロはお金と宝石一切合切をもって姿をくらました。絶望した私は、ふらふらとバスに乗り、気を失った。
気づくと、そこはスペイン領モロッコの首都テトゥアンの病院だった。私は流産していた。ベッドで泣き暮らしていた私のもとに現れたのは、テトゥアン警察署長だった。彼によれば、ホテルからは滞在費未払いの訴え、タイプライター会社からも商品代金未払いの訴え、さらには父ゴンサロの息子から窃盗の訴えまで起こされているという。この頃、モロッコで軍人による蜂起が起きて、フランコ将軍率いる反乱軍がこの地をほぼ掌握、戦火は本国にも飛び火して、すでにマドリードは内戦状態にあった。「君がだまされたことは明らかだ。だがいまはここを動けない。本国の情勢が収まるまで待ち、それから訴えに対処しよう」そう言うと、署長は下宿屋を営むカルデラリアに私を引き取らせた。にぎやかな下宿屋で、私の絶望と孤独も少しずつ癒されていった。
私の裁縫の腕前に感心したカルデラリアは、私に店を持つことを勧める。「資金なら大丈夫」彼女は銃を密売して金を作るつもりだった。その受け渡しに私が行くはめになり、命からがら資金調達に成功。売上げをカルデラリアと折半することを条件に、私はついに自分の店を開いた。ミシンやしゃれた家具、生地、モード雑誌などをそろえ、自分も最新ファッションを身にまとった。でも、中身はいまも不安におびえるシーラのままだった。
第2部
私の店〈シェ・シラー〉には、フランコ将軍と近しいドイツやイタリアの士官の妻や裕福なスペイン人たちが集まり、経営も軌道に乗りはじめた。ある日、ロザリンダ・フォックスという優雅で美しいイギリス人女性が店に現れ、今日中に一着ドレスが欲しいという。いったんは断ったものの、モード雑誌に彼女の写真を発見し、あわててとっておきの奥の手でドレスを作り、彼女の信頼を得ることに成功する。ロザリンダは、スペイン領モロッコの高等弁務官、フアン・ルイス・ベイグベデルの愛人だった。
本国の内戦は激烈を極めていた。私の最大の心配は母の消息だった。母をモロッコに避難させることはできないかと考えたが、国際赤十字社による救出にはお金がかかる。そこでホテルの借金の返済延期を交渉しようとタンジールに向かった私は、ロザリンダの車に同乗させてもらった。彼女の身の上話を聞くうち、生まれも育ちも違うが、何か通じるものを感じた。ロザリンダはロンドンからポルトガルに渡り、友人にベイグベデルを紹介されて、恋に落ちた。しかし、親独であるべき高等弁務官がイギリス人女性とつきあうことをドイツ軍士官たちは快く思っていない。ロザリンダは、イギリス人新聞記者マーカスに、手筈をつけてもらうよう頼んだ。彼の条件はベイグベデルに対するインタビューだ。マーカスは、高等弁務官から話を聞き、その代わりに私の母親の避難を手配してくれた。
フランコ将軍の義理の弟セラーノ・スニャルがテトゥアンを訪れ、高等弁務官の自宅で歓迎パーティが開かれることになった。店にやってきたマーカスが私に、パーティに同伴して、いろいろな人を紹介してもらえないかという。当日、私は広い邸内で迷子になり、たまたま入った小部屋で、セラーノと、ナチス高官で輸送会社HISMAの代表者でもあるベルンハルトが密談をしているのを聞いてしまう。ふたりは、ベイグベデルには知らせぬまま、ジブラルタルに巨大アンテナを立て、英空軍の飛行妨害をする計画を立てていた。私は一部始終をマーカスに知らせた。「僕にまかせて」とささやくマーカス。私たちはそのまま会場から逃げだした。彼に心が傾いているのがわかる。でも、まだ傷つくのが怖かった。
第3部
母は無事避難に成功してテトゥアンにやってきた。巷では、1939年4月にマドリードが陥落して反乱軍が勝利し、フランコ将軍による新生スペインが誕生していた。さっそく組閣が行われ、内務大臣にセラーノ、外務大臣にベイグベデルが抜擢される。ロザリンダも本国に発った。翌日の9月3日、英独開戦。親独派が多数派を占めるなか、ベイグベデルは中立を主張したが、趨勢を変えることはできそうになかった。
しかし1940年5月、赴任してきたスペイン大使は、チャーチル首相からある指令を言いつかっていた。「今回の大戦はスペインが鍵を握っている。中立を保たせ、ジブラルタルを開放せよ。大西洋岸の主要港をドイツに渡してはならない」。しかし、フランコとセラーノには取りつくしまがない。セラーノとベイグベデルとの確執も深刻化し、セラーノはフランコと結託してベイグベデルの失脚をもくろんでいた。
9月、タンジールに立ち寄ったロザリンダが、私を呼び出した。「スペインがいまのままドイツとつながっていては、戦争に巻き込まれてしまう。あなたにお願いがあるの。イギリス情報局秘密情報部(SIS)内にチャーチルが作った諜報組織(SOE)に加わってほしい。復興ままならないマドリードに洋裁店を作ってナチス高官の妻たちを相手に商売をし、情報を集めて。資金ならこちらで出すわ」。私はとても無理だと断ったが、母に相談すると、「ぼろぼろになったスペインがいま戦争に突入したら、二度と立ち直れない。引き受けなさい」という。不安を抱えながらも引き受けることにした。
私はタンジールのアメリカ公使館で、SOEスペイン支部長を務めるアラン・ヒルガースと会い、任務の詳細を説明された。そして、マドリードに開くドイツ人高官など富裕層相手のブティックで、ナチスコロニーの動向を探ることになった。そこで得た情報を、モールス信号によって暗号化し、ステッチや服の型紙の形にして渡すのは、私のアイデアだった。情報授受は週2回。水曜はヘアサロンに行き、ロッカーにファイルを置く。土曜はプラド美術館に行き、クロークにファイルを預ける。昔の友人には会わないように、とくに“HISMA社”“タングステン”“ベルンハルト”という単語に注意してほしいといわれた。身の危険が迫ったら、〈エンバシー〉という喫茶室に昼食時に行けば、ヒルガースと連絡がつく。身の危険……彼の言葉に、私は改めてぞっとした。
店は繁盛し、収入も増えた。だが、そのうち誰かに尾行されていることに気づく。
ある晩、憔悴しきったベイグベデル外相が私の部屋に現れた。ドイツと手を結ぶセラーノは戦争に向かってひた走っている。英米との関係を絶やしてはならないと政府に働きかけてきたベイグベデルは孤立無援となり、まもなく外相を解任されて、拘留されるだろうというのだ。ロザリンダもゲシュタポに追われ、リスボンに逃げた。彼が監視の目を盗んでここに来たのは、ロザリンダ宛の手紙を私に託すためだった。
尾行の気配は続いた。ある晩帰宅すると、昔の婚約者イグナシオがいた。私を尾行していたのは、内務省保安執行部で不穏な外国人を監視する役目を負っているイグナシオだったのだ。みな内戦で疲弊し、苦しい生活を強いられている。死んだ者も多い。彼は、悠々と暮らす私を非難した。たしかに私はまわりに流され、見たくないものは見ないできた。このままではいけない──初めてそんな気がした。
第4部
新聞を読み、縫い、情報報告をする、その繰り返し。ある日、カクテルパーティに招待された私は、そこで意外な人物と再会した。父ゴンサロ・アルバラードだ。じつは、私を呼び寄せたのは、街角で私を見かけた父本人だったのだ。温和になった父と、これまでの空白を埋めるように、私は交流を深めていった。
サルスエラ競馬場が再建されることになり、父の誘いでレセプションに参加した。思いがけず、父はイギリス人の友人のボックス席に座るという。そこにはヒルガースの姿もあった。ヒルガースは、父親とのつきあい方に注意しろと私に言った。私はドイツシンパのはずなのに、イギリスシンパの父と一緒にいること自体、ドイツ側の不信を招くというのだ。もうやめたいと弱音を吐く私に、ヒルガースは追い討ちをかける。「君には新しい任務が用意されている。リスボンに行ってほしい
行きつけのヘアサロンで隣に座ったマダムが私に耳打ちしてきた。ヒルガースの妻だ。リスボンを拠点とする貿易商マヌエル・ダ・シルバは、イギリス側のスパイなのだが、どうやらドイツとも接触し、二重スパイを働いている可能性があるという。私の任務は、リスボンに2週間滞在し、生地の買い付けを装い彼に接触して、情報をつかむことだった。
リスボンは活気のある街だった。シルバはとても魅力的で如才がなく、しかし一筋縄ではいかない印象だ。彼は私を気に入り、すぐに生地商との商談を手配してくれた。彼のオフィスにはドイツ人が出入りしている。やはり裏でドイツと何か取引をしているらしい。
シルバと食事をしていた私は、テトゥアンで別れた新聞記者マーカスと再会した。シルバはマーカスに、「こちら、ブティックを経営するモロッコ出身のアリシュさんだ」と紹介した。別れ際、マーカスは私の手に手紙を握らせた。「なぜ君がモロッコ人に?」私は涙をこらえるので必死だった。
シルバの秘書から何か情報が得られるかもしれないと考え、ひそかに近づいた私。彼女は「イギリスのためになるなら」と情報を流してくれた。シルバはラ・ベイラ鉱山の〈オオカミの涎〉をドイツに独占的に流そうとしているらしい。彼は「邪魔なイギリス人は消せ」と部下に指令を出したという。リストの中にはマーカスの名前もあった。マーカスに警告しなければ。そして、〈オオカミの涎〉とは何なのか? 私はシルバに、自宅でおこなわれるパーティに招待してもらうように仕向けた。
マーカスに警告したいが居場所がわからない。こうなったらロザリンダに頼るしかない。私はロザリンダの家を探しだした。驚くロザリンダ。私たちは旧交を温めた。私がマーカスについて尋ねると、「マーカスには謎が多すぎる。関わらないほうがいい」と忠告された。
パーティの席には大勢のドイツ人とラ・ベイラ鉱山の関係者が集まっていた。その中にはあのベルンハルトもいた。私は魅力的なパーティの花を演じながら、男性陣の話に聞き耳をたてた。そこで明らかになったのは、〈オオカミの涎〉とはミサイル製造の重要な材料となるタングステンのことであり、その取引量と金額は莫大だった。
翌日マドリードに発つ予定だった私は、情報をモールス信号化しノートに服の型紙として写した。夜行列車が停車するリスボンの駅にわざわざ送りにきてくれたシルバは、別れ際、私に情熱的なキスをした。なぜ?
コンパートメントで就寝の用意をしていたとき、列車は最初の駅に停まった。そこに現れたのはマーカスだった。「いますぐ逃げなければ。早く降りるんだ」私はノートだけ手にすると、すでに動きだしていた列車から彼と飛び降りた。近くに停めてあった車まで走り、マーカスは猛スピードでスペイン国境をめざした。マドリードに着いたが、お互いに自分の正体を明かすことができず、わだかまりを抱えたままふたりは別れた。
私はさっそくヒルガースと会う段取りをつけた。彼はすでにシルバが二重スパイとしてドイツにタングステンを横流ししようとしていたことを知っていた。私はにやりとした。「でもご存じなのはそこまでですよね」。私が渡したノートには、取引相手のドイツ人の名前や取引条件などがすべて網羅されていた。ヒルガースは驚嘆の声をあげた。
私は初めて自分に自信が持てた。いままでは他人の敷いたレールに乗ってきただけだが、これからは自分で自分の道を選ぶのだ。私は父に頼み、屋敷に3人の客を招いてもらうことにした。最初に現れたのはマーカスだった。彼にはほかのふたりより少し早く来てもらった。そう、SISの諜報部員である彼の過去の経緯をすべて話してもらうためだ。
マーカスは、スペイン攻略の重要な拠点となるモロッコ領について調べるために、新聞記者を装ってテトゥアンに送り込まれたのだ。ベイグベデルの愛人であるロザリンダが、マドリードに住む知人の避難の手段を探しているとわかったとき、これは高等弁務官に近づく絶好のチャンスだと思った。彼はそこで得た情報を、小さな送信機を使ってタンジールにいる連絡員に毎日送っていたらしい。これですべてはっきりした。私は、やがて現れたヒルガースとその妻に宣言した。「私とマーカスは昔からの友達なの。こちらのアルバラードは私の父。これからはこの5人のつながりを大切にして、最大限諜報活動に活かしていくつもりよ」
会合のあと、マーカスは私の部屋に来た。ふたりの前に立ちはだかるのは危険と困難と、そして冒険。でもふたりでなら乗り越えていけそうな気がした。私は彼のネクタイを解いた。
こうして私は、諜報術を誰に教えられたわけでもなく、でも裁縫とデザインの腕前だけは最高の名スパイとなった。スペインは結局中立を保ち、大戦は連合国側の勝利で終わった。ベイグベデル、セラーノ、ロザリンダ、ヒルガース──物語の登場人物のその後はさまざまである。私とマーカスはといえば、別れたのかもしれないし結婚したかもしれない、あるいは諜報活動をつづけたのかもしれない。そもそも本当に存在していたのかどうか……。とにかく私たちは、歴史の裏側の時という名の縫い目の中に人知れず生きていたのだ。
所感
スペインで、半年間に35万部以上を売り上げ、20刷以上を重ねているという、内戦を背景にひとりの女性の数奇な運命を描く歴史大河ロマンである。おそらく作者は、歴史の大きなうねりを描写し、実在の人物と架空の人物をまじえながら、そのうねりの中に否応なくのみこまれていく人々、しかし懸命に波を切って泳いでいこうとする人間の力というものを描きたかったのではないだろうか。題名の『縫い目のあいだの時間』というのは、そうした人知れず歴史を紡ぐ人々の人生を表現している。スペイン内戦は日本人にはそれほどなじみがないが、経緯については丁寧に説明されているのでわかりやすいし、第二次世界大戦を別の角度からながめることができて、新鮮に感じる。本文のあとに大量の参考文献が紹介されている点からしても、歴史的背景については細かい配慮がなされている。また当時のモロッコの街並み、ファッションも忠実に再現されていて、当時の上流階級の暮らしぶりがまざまざと目に浮かぶ。
終始一人称で書かれているため、主人公シーラのキャラクターが作品のイメージを左右するともいえるが、このシーラ、最初のうちは、小説の主人公にしては珍しいくらい優柔不断だし、うじうじしているし、まわりに簡単に流されるし、で、いらいらするほどだ。ところが、いざドレスメーキングのことになると、見事な手際を発揮する。どこか天才肌の憎めない女性である。それだけまわりに翻弄されつづけた彼女だからこそ、終盤ついにみずからの意志を持ち、自分で道を切り拓こうと決意する場面はカタルシスを呼ぶ。
エピローグの最後の2段落で、ひとりの女性をめぐる現実の歴史物語から、あらゆる可能性を秘めた歴史の懐の大きさ、どこか神話的な世界観が示されるところは感動的だ。
非常に長い小説だが、リーダビリティは高い。激動の時代を生き抜く女性への共感、正確な歴史描写、映像的描写などが、この小説をベストセラーに押しあげたゆえんだろう。実際、この作品はすでにスペインでTV映画になっている。スペイン最大のネット書店〈Casa del Libro〉でも、900人あまりのレビュワーの平均点が★5つである。