教育とは共生の土台、人生の可能な形を稽古する工房だ。それゆえ、認知資本主義は、正規か私的かを問わず、リソース、ツール、メソッドといった教育の全ての分野への進出を虎視眈々と狙ってきた。幼児教育、生涯教育もそうだが、教育は巨大なビジネスにとどまらず、その成果を、社会が不平等な形で奪い合う戦場だ。我々はどのような教育を受けたいか? これはきちんとした対話を望む社会であるなら進んで共有すべき質問だ。我々すべてに関わる話なのだ。我々はみな、工房の徒弟であって、そこで人生の可能な形を稽古する。教育とはプログラムを動かすことではない。それは人を受け入れ、自覚を練り上げ、未来を高め合う場であるのだ。